徳川家の夢と栄華、その名残りを求めて。寛永寺根本中堂と徳川歴代将軍霊廟特別公開!取材レポート

東叡山寛永寺
徳川慶喜が謹慎した「葵の間」

徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正(てんかいだいそうじょう)によって創建された寛永寺(かんえいじ)。
寛永寺の根本中堂、徳川慶喜が謹慎した「葵の間」、そして徳川歴代将軍の御霊廟が2022年10月15日に特別公開された。
今回は特別に撮影許可をいただき、その模様をレポートする。

 

寛永寺 根本中堂外観

上野公園の北側に隣接し、徳川家の墓所を含む霊園を守る寛永寺。
寛永2(1625)年に幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)大僧正によって創建された。
後には第四代将軍・徳川家綱公の霊廟が造営され、将軍の菩提寺も兼ねるようになった名刹である。

今回、特別公開される根本中堂(こんぽんちゅうどう)はもともと現在の上野公園大噴水辺りに建立されたが、上野戦争で焼失。
明治になり、川越の喜多院本地堂を移築されたのが現在の根本中堂だという。

美術館や博物館、音楽ホールなどが連なるエリアから少し離れて寛永寺まで歩くと雰囲気も変わり、凛とした佇まいの寺社が私たちを出迎えてくれる。

「万物は平等」を体現した根本中堂の仏さま

特別に公開された根本中堂内部と参加者たち
当時の地図を示して解説を行う寛永寺執事、石川亮岳さん

根本中堂に案内されると、すでに多くの参加者が集っていた。
この日、解説をしてくださったのは寛永寺の執事である石川亮岳さん。

寛永寺の正式名は「東叡山 寛永寺」。「東叡」は「東の比叡山」という意味で、「寛永」は創建時の元号だ。京都の仁和寺や建仁寺、鎌倉の建長寺など、勅許を得た「元号寺」は数少なく、このことからも寛永寺が江戸屈指の名刹であったことがうかがい知れる。

幕命によって建立された寛永寺だが、開基である天海大僧正には「幕府のためにお経を読むだけの場所にしたくなかった」という思いがあったと石川さんは語る。

そこで天海は清水寺の舞台を模した清水観音堂や、不忍池とそこに浮かぶ小島を琵琶湖と弁才天堂で知られる竹生島(ちくぶしま)に見立て、不忍池弁天堂も造営。さらに境内に奈良・吉野山の桜を筆頭に四季折々の花を移植するなど、庶民の行楽の地としてエンターテインメント性を追求したという。
こうして寛永寺は庶民に「開かれた寺」へと徐々にその姿を変えていったのである。

根本中堂の木造十二神将。薬師如来の十二の大願に応じてそれぞれが、十二の時、月、方角を護るとされる

根本中堂で特に目を瞠るのは、非常に精巧で厳かな雰囲気をたたえた木造の諸仏である。

石川さんのお話によれば、本堂の仏像は比叡山延暦寺に倣い、仏像の目線が参拝者の目線と同じ高さになるように置かれている点が特徴だという。これは「一切衆生悉有仏性(全ての生きとし生くるものは、仏性即ち、仏になる可能性を有している)」という大乗仏教の思想をそのまま体現したものだということで、非常に興味深い。

天海大僧正には「仏の前では人に分け隔てはない」という強い思いがあったのだろう。

慶喜公が謹慎した「葵の間」特別公開!

葵の間内部。当時は寛永寺の子院・大慈院の建物内だった
室内では貴重な慶喜公ゆかりの品々を展示

根本中堂内の渡り廊下を歩き、続いて案内されたのは、今回特別に一般公開された「葵の間」。鳥羽・伏見の戦いで敗れた第十五代将軍・慶喜が謹慎生活を送った部屋だ。

慶喜公は洋画・日本画・書などさまざまな分野に秀でた「才人」だったが、江戸城の無血開城までの2カ月間を過ごした葵の間に再現されたそれらの作品は、生き証人として彼の生前の面影を伝えている。

室内に残された慶喜愛用の品々はもちろん、瀟洒なデザインの双葉葵(ふたばあおい)が描かれた壁紙が目を引くが、これは当初なかったもので、慶喜公を描いた浮世絵に合わせてのちに描き加えられたというのも面白い。

葵の間に飾られた「東叡山全図」。当時の広大な境内に驚かされる

かつて境内は上野公園の土地を中心に30万5000坪に及び、幕府から与えられた寺領は小藩の大名に匹敵する1万5000石を誇ったという寛永寺だが、上野戦争で大きな損害を出した寛永寺は、明治になってその寺域の大部分を喪失。やがてそれは上野公園となる。

また、太平洋戦争でも大きな損害を受けたため、江戸期以来の建物は寛永寺内でも多くはないが、「葵の間」は修理と保存が行われて規模を一回り小さくしながら現在に至っている。

長く続いた江戸時代の凋落をその目にしながら、蟄居していた慶喜の心境はどんなものだったのだろうか。それをうかがい知ることはできないが、室内に明るく差し込む陽の光と、どこか澄んだ空気が印象的だった。

歴代将軍の霊が眠る地

都会とは思えない神秘的な雰囲気に包まれた徳川歴代将軍御霊廟内
常憲院殿(五代綱吉)勅額門

最後に案内されたのは、徳川歴代将軍を祀る「御霊廟(ごれいびょう)」だ。
御霊廟とはご本尊・位牌・木像を安置する本殿とそれを拝む拝殿を相の間でつなぐ「相の間造り」という霊廟建築と、将軍が埋葬されている宝塔(墓所)や水盤舎(すいばんしゃ)の総称のこと。

霊廟の構造は天海大僧正の指導により天台宗の根本聖典である法華経の思想に基づいて造営されたが、大部分の建造物は第二次大戦の空襲で焼失。幸いにも被害を免れた勅額門(ちょくがくもん)・水盤舎は重要文化財に指定され、往時の建築様式を今に伝えている。

五代将軍綱吉の墓所に立つ唐銅の宝塔。青銅製であることが幸いし、損失を免れた
八代将軍吉宗の眠る御宝塔

天海大僧正に深く帰依した三代将軍・家光は寛永寺で葬儀を行った後、日光東照宮の傍らに霊廟を築くように遺言した。四代家綱が寛永寺に葬られると、以後は寛永寺の敷地内に五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の霊廟が、次々と造営された。
元々は徳川将軍家の祈願寺だった寛永寺だが、後に増上寺と並ぶ徳川家菩提寺となったというわけだ。

五代将軍綱吉の唐銅製の宝塔、そして左右両扉に刻まれた鳳凰と麒麟の優雅な彫刻が目を引くが、八代将軍吉宗の宝塔は至って質素な印象で、綱吉とは対照的だ。
幕府の財政を立て直すために「倹約令」を出した吉宗らしく、1720年(享保5年)に御霊屋建立禁止令を発布。以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀するという方針が定められたという。
「暴れん坊将軍ではなく、節約将軍」とは石川さんの弁。

この他、十三代家定の隣には妻である天璋院(てんしょういん)篤姫の霊廟も。徳川家の未来を見つめ続けた一人の女性は、今もここから新しい時代を見守っているのだろうか。

度重なる戦禍、明治新政府による境内全域の没収など、寛永寺のたどった道程は決して平坦ではなかった。
しかし、焼失した徳川家霊廟の森を宗家から譲り受けて霊園にし、一般の檀家を受け入れるなど、時代の変化に合わせながらも開かれた寺であり続けることで、寛永寺はその命脈を保ってきた。
時代は変われど、「万物は平等」「仏の前に分け隔てはない」という天海大僧正の思想は人々の努力により、現代に生き続けているのだろう。

今回ご紹介した御霊廟や葵の間は通常非公開だが、特別公開のスケジュールは寛永寺の公式サイトで案内される(現在は休止中)。
ぜひ、上野を散策しながら往時の人々の想いに触れてみてほしい。

 

東叡山 寛永寺

住所:東京都台東区上野桜木1丁目14-11
拝観時間 : 午前9時〜午後5時
徳川歴代将軍御霊廟・葵の間:通常非公開。特別参拝の案内は、公式ホームページなどで確認
アクセス:JR「上野」駅(公園口)から徒歩15分、「鶯谷」駅から徒歩7分


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