特別展「縄文―1万年の美の鼓動」内覧会レポート

東京国立博物館

2018年7月3日(火)から9月2日(日)まで、東京国立博物館 平成館にて特別展「縄文ー1万年の美の鼓動」が開催されています。7月2日に報道内覧会がおこなわれましたので、その様子をお伝えいたします。

うねり、弾け、逆巻くような、複雑で摩訶不思議な文様。
その立体的な装飾が表現する躍動感とエネルギーは、観る者の心を捉えて離しません。
燃え上がる炎のような形状から 『火焔型土器』と名付けられたその土器は、特に近世以降、その独創性と神秘性で多くの人々を魅了してきました。

また、近年「縄文」は、自然保護やデザイン、ファッション、地域活性化などさまざまな側面から世間の注目を集めています。
かっこいい、かわいい、おもしろい。
土器や土偶がSNSを通じて若い層の支持を集め、より一層私たちにとって身近な存在となりつつあるのです。

特別展「縄文ー1万年の美の鼓動」では、こうした「縄文の美」をテーマに、縄文時代草期から晩期まで、日本列島各地で育まれた優品、約200点を展観。1万年以上にわたる壮大な「美のうねり」を紹介し、その形に込められた人々の思いや技にせまります。


それでは、会場風景と展示作品の中から一部をご紹介いたします。

 

会場風景

本展では、「縄文の美」を紹介するために6つのテーマが設けられています。
縄文時代の人々が生きていく上で作り出したさまざまな道具に宿る「暮らしの美」。
約1万年という長きにわたって作り出された縄文土器の造形美の変遷をたどる「美のうねり」。
縄文土器と世界各地の土器を見比べる「美の競演」。
国宝に指定された火援型土器や土偶が集う「縄文美の最たるもの」。
縄文時代の願いや祈りを体現した造形を集めた「祈りの美、祈りの形」。
そして、岡本太郎ら芸術家や作家が愛した縄文の美を紹介する「新たにつむがれる美」。

特に第4章では国宝の『火焔型土器』『土偶 縄文のビーナス』など、「縄文の造形の極み」ともいえる作品群が展示され、まさに本展覧会の「白眉」というべき章となっています。

 

祝祭の「赤」を基調に彩られた第4章の展示会場

 

円形のオブジェが重なり合うように構成された第5章の展示空間

また、本展覧会で筆者が注目したのはその空間構成です。『火焔型土器』の名の通り、炎と祝祭を象徴する赤を基調に染め上げられた第4章の展示会場や、家を円形に配置して中央に広場を作る「環状集落」など、縄文時代の遺跡に多く見られる「円」で構成された第5章の展示空間。空間一つ一つを取り上げても、トーハクならではの演出に満ちています。

会場には縄文時代を思わせる自然音が聞こえ、さらに夜間開館では独自のライトアップが予定されているとのこと。縄文時代に迷い込んだ気分で、ぜひ会場の隅々まで散策してみてください。

展示作品紹介

土偶 縄文の女神

縄文時代中期 山形県立博物館

 

「側面から見たほうがカッコいい」と語る人も多い本作。鋭角的な「クビレ」が見る人を魅了する

国宝に指定された土偶のうち、45cmを誇る最長の土偶。八頭身美人と称される優美な姿形が特徴的です。ほかの土偶は母性的な豊満さを表現していることが多いですが、この『縄文の女神』はどちらかといえば鋭角的な印象を与え、現代美術にも通じる斬新さと洗練さが魅力的です。

「こちらの土偶には顔はありません。しかし、縄文人には慈愛に満ちた女性の顔がきっと見えていたことでしょう。あえて表現しない、そういったかたちで示すという技を、縄文人は持っていたのです」

そう語ってくださったのは、東京国立博物館の考古室長である品川欣也氏。

「動物を象った造形などもあり、縄文人はそのままに形を作ることはたやすくできます。ただし、彼らはそのままの形で仕上げることはしなかった。その出し入れ、捨象の仕方に縄文の造形の妙があるのです」

遮光器土偶

縄文時代晩期 東京国立博物館

「日本でもっとも有名な土偶」である遮光器土偶。土偶といえば、まずこの遮光器土偶を思い浮かべる人が多いでしょう。その特徴的なアーモンド形の目の表現についてはさまざまな解釈があり、雪中遮光器説(エスキモーが雪中行動の際に着用する)や、目を閉じて眠る幼児や死者の顔だとする説もありました。

全身を飾る華やかな文様も見どころのひとつ。また、左足が欠損していますが、品川氏は「ミロのヴィーナス(両手が欠損)と一緒で、これが本来のあるべき姿なのではないか」と述べ、ここにこの土偶の魅力があると語ります。欠損なのか。それとも、これが本来の姿なのか。ぜひ、会場で直接見て確かめてみてください!

ハート形土偶

縄文時代後期 群馬県東吾妻町郷原出土

“インスタ映え”必至のハート形土偶。縄文時代後期前葉に東北北部から北関東地方に分布する土偶で、顔のかたちがユニークなハート形をなすことからその名がつけられました。極端にデフォルメされた顔や体の表現と、繊細な文様との対比が特徴的で、その個性的な姿から多くの人に愛されてきました。その人気から昭和56年には切手のデザインにも採用されたハート形土偶。これからはSNSを通じて、特に若い世代の女性たちに愛されることになりそうです。

木製編籠 縄文ポシェット

縄文時代中期 青森県教育委員会(縄文時遊館保管)

縄文時代の手仕事のぬくもりと繊細さが感じられるようで、筆者お気に入りの展示。側に置かれているのは原寸大のクルミです。縄文時代といえば土器のイメージが強いですが、他にも木器、樹皮や植物の繊維を編んで作られた籠や袋などの編物製品が用いられていました。

本作は「縄文ポシェット」と呼ばれる有名な作品で、教科書でもおなじみの「三内丸山遺跡」から出土しました。この作品から感じられるのは、自然の恵みを生かし、素材の特性を考えて作られた手仕事の美しさ。縦横に規則正しく作られた網目は、土偶の緻密な文様とどこか似通っていて、あの時代に生きていた人たちはどんな繊細な感性を持っていたのだろうと興味が湧いてきます。


「人が集まるところには、『輪』があります」

個人的に印象に残ったのは、第5章の空間構成に関する品川氏の解説です。

「縄文時代の人々が過ごしたこの『円』の中で、さまざまな祈りの形と出会うことで、みなさんが普段忘れていたような願い、祈り。そういったものを思い出していただければと思っています」

円は「縁」。輪は「和」。考えてみれば、円や輪というのは全て、人と人との出会いや親密さをあらわす言葉へとつながっています。
縄文時代の自然という円環の中で、そして人と人とが紡ぎ出す関係の中で、縄文人は何を感じ、どのように生きていたのか。

特別展「縄文ー1万年の美の鼓動」で展示されている作品群は、その形に込められた当時の人々の思いを私たちに伝えてくれます。
ぜひ会場に足を運んで、その一端に触れてみてはいかがでしょうか?


開催概要

展覧会名 特別展「縄文ー1万年の美の鼓動」
会 期 2018年7月3日(火)- 9月2日(日)
午前9時 30分- 午後5時(入館は閉館の30分前まで)
※金曜・土曜日は午後9時まで、日曜日および7月16日(月・祝)は午後6時まで
休館日 月曜日、7月17日(火)※ただし7月16日(月・祝)、8月13日(月)は開館
会場 東京国立博物館 平成館
観覧料 一般  1600円 (1300円)
大学生 1200円 (900円)
高校生  900円 (600円)
※ ()は20名以上の団体料金
※ 中学生以下無料
※ 障害者とその介護者1名は無料(入館の際に障害者手帳などをご提示ください)
公式サイト http://jomon-kodo.jp/

記事提供:ココシル上野
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「ミラクル エッシャー展」内覧会レポート

上野の森美術館
左からロニット・ソレック氏(イスラエル博物館 版画・素描部門学芸員)、シヴァン・エラン=レヴィアン氏(イスラエル博物館 巡回展主任)、熊澤弘氏(東京藝術大学大学美術館 准教授)、野老朝雄氏(アーティスト)

2018年6月6日(水)から7月29日(日)まで、上野の森美術館にて「ミラクル エッシャー展」が開催されます。今回は、先日開催されたプレス内覧会の様子をお伝えいたします。


「視覚の魔術師」とも呼ばれる稀代の版画家、マウリッツ・コルネリス・エッシャー。実際にありそうで存在しない世界、ひとつの絵の中に重力が異なる世界が存在するなど、その奇妙で不可思議な作風は世界の人々を魅了し続けています。

生誕120年を記念して開催される大型展覧会「ミラクル エッシャー展」では、世界最大級のエッシャーコレクションを誇るイスラエル博物館の所蔵品より、有名な“トロンプ・ルイユ”(だまし絵)の作品に加え、同博物館でも常設展示されていない秘蔵のコレクション約150点が来日します。
奇想版画家エッシャーは、どのようにして唯一無二の作品を生み出したのか。本展覧会では、「科学」「聖書」などの8つの独自の観点から、その「ミラクルな」版画の謎に迫ります。


展示紹介

1. エッシャーと『科学』



エッシャーの版画では、特定のモティーフが反復しながら循環したり、タイル状に埋め尽くされるなど、幾何学的な独自の表現が用いられています。エッシャーはこれらの表現を生み出すために、同時代の科学から着想を受け、独自の数学的な理論を発展させました。

この章では、エッシャー版画に現れるさまざまな幾何学的表現を紹介しています。

2.エッシャーと『聖書』



第2章では、若いエッシャーが描いたキリスト教主題の版画が取り上げられています。旧約聖書創世記を扱った連作には、19世紀後半から20世紀初頭にヨーロッパで流行したアール・デコ様式からの影響を見ることができます。

3.エッシャーと『風景』


1920年代からのイタリア、スペイン旅行、特にアルハンブラ宮殿での幾何学な装飾模様との出会いは、のちのパターン化されたモティーフ表現の原点となりました。そしてピクチャレクスな風景版画は、のちに登場する視覚的な実験を先取りしたものとなっています。

4.エッシャーと『人物』


エッシャー版画に登場する人物像は、しばしば反復されるパターンのモティーフの一つとして画面に登場しますが、初期のエッシャーは単身の人物表現にも取り組んでいます。

この章で紹介されている人物像の多くは家族など近しい人を扱っていますが、同時に自分自身の姿もさまざまな方法でモティーフとしていました。

5.エッシャーと『広告』


エッシャーの造形は商業デザインにも登場します。この章では、商用として利用されたイメージとともに、エッシャーらしさが凝縮された小さなグリーディングカードも展示されています。

6.エッシャーと『技法』


自らを「芸術家」ではなく「版画家」と考えていたエッシャーは、木版、リトグラフ、メゾティントなどさまざまな版画技法に取り組み、それらの技法を高度に発展させ、時に複数の技法を統合させながら不可思議な版画空間を作り出しました。

この章では、多種多様な作例、マテリアルとともにエッシャーの版画技法を紹介しています。

7.エッシャーと『反射』


こちらは《球面鏡のある静物》という作品。エッシャーの作り出す不可思議な世界の特徴のひとつが、「鏡面」のイメージです。鏡面を用いた絵画は、ヨーロッパでは近代以前から数多く描かれましたが、エッシャーもまた現実世界のモティーフと仮想世界としての鏡像の共存するイメージを描くことに没頭していました。

8.エッシャーと『錯視』


エッシャーの代表作でもある《相対性》や《滝》といった作品が展示されている最終章。エッシャー芸術を代表する要素が、これらの作品に見られるような実現不可能な建築表現、永遠に変化し続けるパターンを描いた「ありえない世界」です。

この独創的な表現は、当時の数学者が発表した不可能な図形に着想を得たものもあり、正則分割を用いた循環する表現とともに、エッシャーが長年にわたり独自発展させた理論が形になったものです。


大作《メタモルフォーゼII》の前で展示解説をおこなう熊澤弘氏

本展覧会のフィナーレを飾るのは、1939-1940年に制作された大作《メタモルフォーゼII》。文字から始まり、さまざまな形態が変容しながら循環し続け、やがて最初の文字へと至るこの作品は「エッシャー芸術の極点」とも称えられます。

「第二次世界大戦後、エッシャーの展覧会が英語圏で開かれたのをきっかけに、現在まで至るエッシャー人気が生まれましたが、その時に高く評価されたのがこの《メタモルフォーゼII》です。この後、彼の作品はいわゆるアートの領域よりも科学者や数学者に取り上げられる機会が増えていきました。そうした点もこの作者の面白いところだと思います」

そう語ってくださったのは、東京藝術大学大学美術館 准教授の熊澤弘氏。

「彼のフォロワーの一人が『インセプション』を監督したクリストファー・ノーランであり、変わったところでは『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦さんもそうですね。このように現代の私たちのポップカルチャーにも影響を与えているエッシャーですが、彼の展覧会では東京では12年ぶりとなります。ぜひまたフレッシュな視点で、エッシャーの作品をご覧いただければと思います」

会期は2018年6月6日(水)から7月29日(日)まで。
これは現実なのか?仮想世界なのか?
今世紀最大の「奇想の版画家」に挑む「ミラクル エッシャー展」、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

開催概要

展覧会名 生誕120年 イスラエル博物館所蔵 ミラクル エッシャー展 奇想版画家の謎を解く8つの鍵
会場 上野の森美術館
東京都台東区上野公園1-2
会期 2018年6月6日(水)~7月29日(日)
※会期中無休
開館時間 10:00~17:00
※毎週金曜日は20:00まで
※入館は閉館の30分前まで
料金 一般:1,600円(1,400円)、大学・高校生:1,200円(1,000円)、中学・小学生:600円(500円)
※()内は団体料金
URL http://www.escher.jp/

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ビートたけしさんも登壇、「江戸まち たいとう芸楽祭」記者発表会レポート

木馬亭

台東区では、2018年8月~2019年2月にかけて、本区に根付く芸能や伝統文化を肌で感じてもらう新事業、「江戸まち たいとう芸楽祭(げいらくさい)」を開催します。5月30日に浅草・木馬亭で開かれた記者発表会には、名誉顧問に就任されたビートたけしさんも登壇されました。

芸能・伝統文化の継承・発展

粋や人情など、心を感じる生活文化が息づく台東区。この風土の中で、先人たちは芸を磨き、世へ発信していきました。「江戸まち たいとう芸楽祭」は、こうした芸能や伝統文化に触れてもらうとともに、次代を担う新しい才能を発掘しようとする取り組みです。2018年8月~10月は「夏の陣」と題して、北野武監督作品の上野公園野外上映をはじめ、むかし話を創作する講談ワークショップや、屋形船で実演芸能を堪能するイベントなどが実施されます。また11月~2019年2月は「冬の陣」として、演芸場などの文化資源を活用した朗読、演劇などのほか、江戸~平成の芸能を堪能できる豪華プログラムが予定されています。

名誉顧問には、浅草フランス座(現 東洋館)で修業し芸人を目指したビートたけしさんが就任。顧問には、「浅草演芸ホール・東洋館」を率いてビートたけしさんや萩本欽一さんを育てた松倉久幸(まつくら ひさゆき)さんが就任しました。記者発表会のトークセッションには、お二人のほか、服部征夫(はっとり ゆくお)台東区長も登壇。冒頭では、服部区長がビートたけしさんに「(浅草に)おかえりなさい、たけしさん」と呼びかける場面もありました。

服部征夫 台東区長

トークセッション

先ほど区長から「おかえりなさい」という言葉がありました。たけしさん、いかがでしょうか。

ビートたけしさん:
まあ、帰ってきたわけじゃなくて、よくいるから(笑)。暇さえあれば、浅草で呑んでるんですけど。とにかく、自分が学校をクビになって辿り着いたのが、この街で。それで、妙な拍子に芸人になってしまったものだから、自分の人生の半分以上は浅草の人情でもってきたようなものです。できれば時間の許す限り、恩返ししたいと思っています。

ビートたけしさん
司会を務めたのは、河井卓治(台東区文化産業観光部長)さん

松倉会長にも、芸楽祭を盛り上げていただきます。今のお気持ちはいかがでしょうか。

松倉久幸さん:
たけしさんが名誉顧問を引き受けてくれたのは、台東区にとって、浅草にとって、非常にありがたいことだなと思っています。浅草というところは、エノケン以来、数多くの芸人が巣立っております。今も第二の「たけし」になろうということで、若い芸人さんたちが張り切っております。これから浅草は益々盛んになるだろうと思っておりますので、どうぞ皆様、よろしくお願いいたします。

松倉久幸(浅草演芸ホール・東洋館会長)さん

たけしさんが今回の顧問を引き受けてくださったのは、浅草に対する里帰りや、恩返しというお気持ちがあったのでしょうか。

ビートたけしさん:
浅草に行くことは、子供時代から遠足みたいなもので。中学生から高校生になると、映画から演劇から何でもあって、今でいう下北沢のような感じだったんです。でも、いつの間にか演劇場がなくなったりして、若者のエンターテインメントが下北沢のほうに行ってしまった。浅草は東洋館とかも頑張っているんですけど、もうちょっとライブハウス的なもの、ロックバンドから落語から漫才から、全部が気軽にできるフリーな劇場を浅草が率先して作って、若い奴らがチャレンジできる場所があれば、また若い奴らが目立つようになると思うんです。その助けは、どうにかしたいと思っています。

たけしさんの修業時代の浅草は、まだ人が集まらなかった時代だと思います。松倉会長は、現在の浅草をどうご覧になっていますか。

松倉久幸さん:
たけしさんが浅草に来た時代は、いわば浅草のどん底の時代でございました。オリンピックを境にテレビが浸透しまして、映画館はなくなっていく、演芸場はなくなっていく。けれども、たまたま浅草には深見千三郎という素晴らしい芸人がおりまして、彼に憧れて浅草に来たという芸人さんが大勢おりました。たけしさんも、薫陶を受けた一人。やはり深見千三郎という素晴らしい先輩、指導者がいたのは、浅草にとっても日本の演芸界にとっても、素晴らしいことだったと思っています。浅草はこれからも、そういう素晴らしい芸人が巣立つ場所であってもらいたい。その意味で、今回の芸楽祭はありがたいものだと思っています。

たけしさんを目指している若手芸人の方に、たけしさんから、何かアドバイスはありますでしょうか。

ビートたけしさん:
昔は芸人になることが、ちょっとカッコ悪いことでした。そういうのをぶち破ったのが萩本欽一さんで、そのあとを継いだのが我々だと思っています。最近では、テレビでお笑い芸人を観ないことがない。でもインターネットの世代が登場して、また時代が変わった。今度はライブの時代になって、ライブハウスがいっぱいある下北沢のほうに、文化が全部流れていくような状態なんです。それでも、こと浅草に関してはもともと歴史があって、お笑いとか映画とかの文化は浅草発信というものが多い。浅草は江戸時代くらいからの年季がありますから、そこで育つ人たちのほうが、味があるんじゃないかと思っています。伝統と歴史の裏付けを背負った素晴らしい芸人さんや職人さんがいっぱい出てくれたら、非常に嬉しいです。それで浅草がまた、文化の中心地になったらいいなと思います。

トークセッション後のフォトセッション

トークセッションでは、登壇された皆さんの浅草への愛情、そして浅草で若者に成功してもらいたいという想いを感じることができました。「江戸まち たいとう芸楽祭」は、2018年8月4日(土)より、上野恩賜公園 噴水広場にて開催される映画の野外上映を皮切りにスタートします。台東区に根付く芸能や伝統文化の祭典に、是非ご期待ください。

開催されるイベントの詳細は、公式ホームページをご覧ください。

【江戸まち たいとう芸楽祭】
http://www.taitogeirakusai.com/
 
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【東京藝術大学大学美術館】NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」内覧会レポート

東京藝術大学大学美術館


東京藝術大学大学美術館では、2018年5月26日(土)~7月16日(月・祝)の期間、NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」が開催されています。5月25日に行われた内覧会を取材いたしましたので、本展覧会の内容をご紹介いたします。

薩摩(鹿児島)の一介の下級武士から身を起こし、明治維新を成し遂げた西郷隆盛(1827-77)。しかし彼には肖像写真が一枚も残っておらず、その生涯は多くの謎に包まれています。本展覧会は大河ドラマと連動しながら、西郷ゆかりの歴史資料や美術品などによって、「西郷どん」の人物像と激動の時代を浮き彫りにします。

内容紹介

プロローグ 西郷と薩摩

西郷隆盛は文政10年に鹿児島城下の下加治屋町において生を受けました。プロローグでは、鹿児島の町並みを表した絵図や、桜島の風景画、西郷らが学んだ「野太刀自顕流」で使われた打棒などの資料が展示され、西郷が育った環境を知ることができます。

《西郷隆盛肖像画》石川静正画 大正時代初 油彩、キャンバス 一点 個人蔵
《鹿児島城下絵図屏風(模本)》天保年間(1830-44) 紙本着色 六曲一隻 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵 玉里島津家資料 展示期間:5/26-6/17
《薩摩琵琶 銘 木枯》伴彦四郎作 木製、漆塗 一面 個人蔵

幕末・明治の名士たちが多くの肖像写真を残した一方、西郷の写真は一枚も残っていないと言われています。それでも私たちが「西郷」と聞いてその姿を思い浮かべることができるのは、肖像画によるイメージが流布したためです。エドアルド・キヨッソーネや佐藤均(さとう ひとし)、時任鵰熊(ときとう わしくま)といった画家が、遺族の写真や証言をもとに西郷を描きました。また、石川静正(いしかわ しずまさ)は絵が本職ではありませんでしたが、西郷と面識があり、思い出をもとに西郷のイメージを描き起こしました。

第一章 船出

嘉永6年(1853)のペリー来航は、西郷の人生に大きな変化をもたらしました。外国船の来航に対し、早くから危機感を抱いていた島津斉彬(しまづ なりあきら)が藩主となった薩摩藩では、近代化が推進され、西郷も政治の表舞台へと活躍の場を広げていきます。この章では、斉彬の威厳を示す大鎧や、斉彬から勝海舟(かつ かいしゅう)に宛てた書状、西郷が江戸勤務を命じられた時期の書付などを通して、幕末にさしかかろうとする時代を追います。

《天璋院所用 薩摩切子 藍色栓付酒瓶》江戸時代 19世紀 カットガラス 一対 公益財団法人德川記念財団
《伝島津斉彬所用 紫糸威鎧》江戸時代 一領 京都国立博物館蔵
《木砲》江戸時代 19世紀 木製 一門 京都・霊山歴史館蔵

随分と簡易な大砲が展示されています。こちらは、ペリーが来航した際に幕府が各藩に海岸防備を命じ、大砲が不足したために即席で作らせた木製の大砲。未使用のまま残る数少ない木砲です。

第二章 流転

安政五年(1858)、井伊直弼(いい なおすけ)による「安政の大獄」が開始されました。西郷は、幕府の追求から月照(げっしょう)を守れず、月照と入水自殺を図りますが、一人息を吹き返し、奄美大島に潜居します。文久二年(1862)に、西郷は奄美大島から呼び戻されますが、その後「尊攘派を煽動している」として徳之島への遠島、続いて沖永良部島への遠島命令が下ってしまいます。第二章では、尊王攘夷運動により混迷する政局と、大きく変わっていった西郷の人生にまつわる資料を展観します。

《於薩海二英入水》松月保誠画 明治11年(1878) 錦絵 三枚続 京都・霊山歴史館蔵
《薩英戦争絵巻》柳田龍雪、中島白圭、有馬柳泉筆 紙本墨画淡彩 一巻(四巻のうち) 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
西郷が沖永良部島で自作したと伝わる疑似餌
《薩摩烏賊餌木》江戸時代末-明治時代初 木製 二点 山形・公益財団法人荘内南洲会

第三章 飛翔

元治元年(1864)、西郷は、その力量が求められ、沖永良部島から鹿児島に呼び戻されました。「禁門の変」で長州軍の撃退に成功した西郷でしたが、幕府が再び長州攻めを示唆すると、西郷は幕府と手を切ることを決断。坂本龍馬の仲介により、薩長同盟が成立し、武力討幕への道が開かれました。本章では、薩長同盟覚書の写しや討幕の密勅、上野戦争の戦争画などの展示物により、一時代の終わりが示されます。

禁門の変の功績により、西郷が島津久光・忠義から拝領したもの
《西郷隆盛 陣羽織(複製)》唐緞子、唐錦 一領 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
《討幕の密勅》慶応3年(1867)10月13日付 紙本墨書 一通 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵 玉里島津家資料 ※後期(6/19-7/16)は複製
岩倉具視奉納の錦の御旗
《錦旗》慶応4年(1868) 緞子 一旒 福島・靈山神社

第四章 英雄

新政府の参議となった大久保利通の願いにより、西郷は政府入りを決断します。その後、朝鮮との外交問題をめぐって大久保らと対立すると、西郷は鹿児島へ戻り、狩猟や農業に従事しました。しかし、新政府に不満を募らせた士族の反乱が全国で巻き起こると、やがて西郷は生涯最後の戦い「西南戦争」に赴きます。この章では、西郷が佩用したサーベルや、大久保が所有したキセルなど、新時代を生きた彼らの所有物と合わせて、西南戦争の資料を展観し、彼らの生涯の終わりまでを追います。

(右)《西郷隆盛着用 狩羽織》明治時代初 一点 個人蔵
(中)《西郷隆盛所用 刀装具(縁頭、目貫)》筑山軒元茂作 文政3年(1820) 金製 一式 個人蔵
(左)《西郷隆盛 印鑑》明治時代初 ろう石 三点 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
西郷軍が軍資金不足を補うために発行した軍票
(下)《西郷札》明治10年(1877)6月 布製、漆 一式 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
西郷の座右の銘。”天を敬い人を愛す”の意
鶴岡市指定文化財《書「敬天愛人」》西郷隆盛筆 明治8年(1875)1月 紙本墨書 一幅 個人蔵 展示期間:5/26-6/17

エピローグ 人々の中の西郷

最終章では、発起人の急死により建設が中止された幻の西郷隆盛銅像の建設案や、上野の西郷隆盛銅像の制作過程を写した写真が展示されています。展示物を通して、西郷隆盛がいかに人々から慕われていたのか、感じ取ることができます。

幻の西郷隆盛像
《故西郷隆盛翁建碑広告》明治22年(1889) 石版 一点 石川・山鬼文庫蔵
《西郷隆盛未成像并面部》滝川慶雲撮影 明治時代 紙焼き写真 一枚 東京藝術大学 展示期間:5/26-6/17

内覧会で実施されたフォトセッションでは、「西郷どん」で大久保利通を演じる瑛太さんが登場。会場を観覧した瑛太さんは、小物好きの大久保が所有していた懐中時計に興味を引かれたとのこと。瑛太さん自身も懐中時計を持っているそうで「似たところがあるのかもしれない」と話していらっしゃいました。

本展覧会で展示されている資料はどれも状態がよく、非常に驚かされます。資料保全に関わる方の努力に感服すると同時に、幕末がほんの150年前の出来事であることを実感します。皆様もぜひ足を運んで、幕末や西郷隆盛に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

フォトセッションに登場した瑛太さん
《大久保利通所用 懐中時計》19世紀 金製 一点 国立歴史民俗博物館蔵

開催概要

展覧会名 NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」
会 期 2018年5月26日(土)- 7月16日(月・祝)
午前10時 – 午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 月曜日(※7月16日(月・祝)は開館)
会場 東京藝術大学大学美術館 本館
展示室1、2、3、4
観覧料 一般1,500円(1,200円) 高校・大学生1000円(700円)
(中学生以下は無料)
※()は20名以上の団体料金
※ 団体観覧者20名につき1名の引率者は無料
※ 障害者手帳をお持ちの方(介護者1名を含む)は無料

記事提供:ココシル上野
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講演会シリーズ「江戸から学ぶ」、5/27にキックオフイベントを開催

東京国立博物館
平成館 大講堂

2018年は江戸から明治へと時代が変わって150年の節目の年。台東区では今年度、講演会シリーズ「江戸から学ぶ」と題し、全7回の連続講座を実施する予定です。そのキックオフイベントが、5月27日(日)に東京国立博物館 平成館にて開催されました。当日の様子をご紹介いたします。

本イベントは二部構成。第一部は、德川御宗家十八代当主である德川恒孝(とくがわ つねなり)さんが基調講演を実施。第二部ではトークセッションとして、德川恒孝さん、竹内誠(たけうち まこと・東京都江戸東京博物館名誉館長)さん、浦井正明(うらい しょうみょう・東叡山寛永寺長臈)さん、服部征夫(はっとり ゆくお)台東区長が登壇されました。

基調講演「私の見た江戸時代」

基調講演に登壇された德川恒孝さんは、2003年に財団法人德川記念財団を設立。理事長に就任され、江戸時代の研究とその結果の発表を精力的に行っています。本講演では、江戸時代の特徴や日本人の気質などについて、お話をされました。

德川恒孝さん

德川さんが本講演で特に強調されたのは、江戸時代における「学問」。戦国時代が終わり江戸時代になると、「武」から「文」の時代へと移り、いろはやそろばんといった学問をお寺で教える文教政策が実施されました。こうした政策により、日本人の識字率は同時代のヨーロッパと比べ、非常に高いものとなりました。

18世紀に入ると、資源と人口のバランスが限界を迎え、徹底した質素倹約が始まります。金の掛からない娯楽が求められるようになり、花見や寺社の祭禮、寄席のほか、読書もまた娯楽の一つとして流行しました。その結果、俳句や浮世絵、川柳などの書籍が数多く出版され、日本の書籍出版数は世界最高となりました。書籍を通して様々な文化が広がっていったのも、町人の識字率の高さに由来するものでした。德川さんはこうした江戸時代の文教政策について、「江戸の平和がもたらした最も良いことの一つ」と話していました。

トークセッション「今も生き続ける江戸・台東区」

第二部では、浦井正明さんが進行役を務め、德川恒孝さん、竹内誠さん、服部征夫 区長が、江戸や台東区にまつわるトークセッションを展開。江戸に造詣の深い皆さんのお話に、客席からは驚きの声や、時折笑い声が聞こえていました。

浦井さん:
「江戸から学ぶ」という講演会シリーズは、服部区長が企画されました。なぜこのような企画を立ち上げられたのでしょうか。

服部区長:
江戸時代は町人文化の最盛期でした。防災への取り組みや、教育水準の高さから、地域コミュニティがしっかりと機能していたことが分かります。こうした伝統や文化は台東区のアイデンティティになっていると考えておりまして、江戸に学ぶことで未来を拓く活力が生み出せると思い、企画しました。

浦井正明さん
服部征夫 台東区長

浦井さん:
德川さんにお伺いします。德川家康公は何を理念として江戸を開府したのでしょうか。

德川さん:
家康公は江戸を日本の中心にしたかったのだと思います。地図を見れば分かりやすいのですが、江戸は日本全体の中心に位置しています。もともと江戸は大都会ではありませんでしたが、ポジションとしてはベストだったと思います。

浦井さん:
先ほどの御宗家の講演でも識字率の話がありました。竹内先生、識字率について何かお話しいただけますか。

竹内さん:
江戸時代、村で庄屋さんの選挙をやる場合、入札と呼ばれる記名の投票が行われました。その票が今でも残っているんです。入札を見ると、文字が書けない人のために同一人物が代筆したらしい綺麗な字のものもありますが、それを除くと個性ある字が村全体の70~80%。つまり識字率が70~80%だったということです。小さな村でこの識字率の高さは大変なことで、江戸でも地方でも、人々が身に着けていた教養には大きな格差がなかったんですね。こうした土台があったから、文明開化で西洋文化が入ってきた時にも受け入れることができたし、さらに日本風に咀嚼することができたんです。

竹内誠さん

浦井さん:
女性の教育についてはいかがでしょうか。

竹内さん:
開国後、日本を訪れた大勢の外国人が「驚きは、男性のみではなく女性にも教育がなされていること」と記録を残しています。ですから、日本の女子教育は世界でも有数の水準だったということです。さらに女性と男性の力関係については、武家社会でこそ男性中心でしたが、庶民社会では人生色々(笑)。夫婦のどちらが尻に敷くかは場合によりました。

浦井さん:
服部区長は本講演シリーズを企画された際、江戸時代に創業したお店が台東区に何軒残っているのか、お調べになったと伺いました。そのことをお話しいただけますか。

服部区長:
昨年度の東京商工リサーチの情報ですが、83事業所が現在も事業を営んでいるようです。これだけの数が残っている理由の一つとして、寛永寺や浅草寺の門前町ということで、鰻屋さんや和菓子屋さんが残っている。さらに、360年前の明暦の大火で江戸市中の6割が焼けてしまった際、各地のお寺さんや色々な方々が台東区へ移ってこられた。お寺さんが移ってくれば、職人さんも移ってくる。そのようなことで、職人さんが多くいらっしゃるのではないかと思います。

浦井さん:
江戸後期になると人々は旅行を楽しんでいたようです。その点について、竹内先生いかがでしょうか。

竹内さん:
江戸時代は、一般庶民が机の上で本を読むだけではなく、動くことで文化を築いていく「行動文化」の時代でした。旅もその一つです。江戸時代の旅行は信仰と結び付いていて、お伊勢参りのようにパワースポットを目指しました。さらに、現代でいう旅行代理店も存在したんです。当時の旅は怖いもので、見ず知らずの人と相部屋だったので、非常に危険を伴いました。その点、旅行代理店に入会すると、身分のはっきりした人とだけ同部屋にしてもらうことができました。旅行のシステムが出来上がっていたんです。

それともう一つ、今日僕は台東区のお話をしていないので、それを少しお話しします。今は「西郷どん」ですよね。西郷さんと言えば、上野の銅像です。誰が造ったのかと言えば、高村光雲さん。彼は長屋の生まれだったんですが、12歳になったときに父親から社会へ出ろと言われて、大工の面接を受けることになった。それで面接の前におめかしをしようと床屋へ行ったんですが、そこで床屋が「高村東雲さんが弟子を募集してるから、そっちのほうがいいんじゃないの」と助言をした。そして東雲の面接を受けて、合格したんです。なぜ合格できたのかと言えば、東雲は、脱いだ履物をしっかり揃える彼の姿を見て合格を決めたそうです。長屋生まれであっても他人の家にあがる時は履物を揃えるように家庭で躾けられていて、それが身についていると見えて、弟子にした。この話を読んだ時、僕は東日本大震災の直後に投稿された句を思い出しました。

”大津波 逃れし人の避難所に 百余の靴の 整然と並ぶ”

ごった返し、命からがら逃げてきた先でも靴を並べている。危機的状況の中で、人間の本性(ほんせい)が顕れたのでしょう。まさに高村光雲の持っていた礼儀正しさが、そのままDNAとして日本人の中に今日まで残っているのだと思います。


竹内さんのお話が終わると、客席からは自然と拍手が起こり、キックオフイベントは閉幕となりました。講演会シリーズ「江戸から学ぶ」は、7月から来年1月まで、全7回の講演を実施します。ぜひ足を運んで、江戸や台東区について思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

イベントの詳細や参加申込方法は、台東区のホームページをご覧ください。

【台東区 ホームページ】
https://www.city.taito.lg.jp/index/bunka_kanko/torikumi/edo/edokaramanabu.html
 
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「第36回 浅草流鏑馬」開催! 射手の勇壮な姿に沸く会場を取材しました!

台東区立隅田公園

2018年4月21日(土)、汗ばむ陽気となったこの日、台東区立隅田公園では「第36回 浅草流鏑馬」が開催されました。馬を馳せながら矢で的を射抜く勇壮な射手。その華麗な技術で賑わう会場を取材しましたので、その様子をご紹介いたします。

草鹿

流鏑馬に先駆け、会場では「草鹿(くさじし)」が執り行われました。草鹿は歩射、つまり馬上ではなく地上から弓を射て的を狙います。その起源は、かつて源頼朝が狩りを催した際、家人がしばしば鹿などの獲物を射損じたため、射術の稽古として始まったものと言われています。

 
草鹿の的は鹿の形をしており、射手は鹿に描かれた白い斑点を矢で狙い、当たり・外れを競います。しかしながら、的中するだけでは当たりとはなりません。審判である奉行が、矢を放つ所作や矢の飛び方、的中した矢が落ちた場所などを総合的に判断して当たりとなるのです。そのため足の運び方などの所作に誤りがあれば、的中しても外れとなります。古書には「遊射なり」と記され、競技的な意味で行われていた草鹿ですが、その所作は厳格に定められています。今回開催された草鹿では、定められた所作に則りつつ、来場者にも親しみが持てるように要所で解説が行われました。
 
時折強い風が吹く中、射手が見事に的中させると、会場から歓声があがりました。的中すると、射手と奉行との間で、言葉のやり取りが行われます。これは、奉行が射手に対して「今の矢はいい矢だったと思うか」と問いかけたり、射手が奉行の判定に物言いをするもので、「~で候う」といった古式の言葉遣いで行われます。中には、スカイツリーのように素晴らしい矢だったはずだ、と物言いをする射手もおり、会場は笑いに包まれました。

流鏑馬

草鹿が終了すると、隣の会場では流鏑馬が執り行われました。流鏑馬では、馳せる馬の上から3箇所の的を射抜きます。会場を見て驚くのは、馬場の幅の狭さ。幅約2メートル、長さ約300メートルの砂地を馬が疾駆します。

馬が行列となり馬場を歩いた後、いよいよ流鏑馬が始まります。馬場本(出発点)と馬場末(終着点)に立つ奉行が、大きな扇を振って馬場の安全を合図すると、馬が駆けだし、射手は壱の的、弐の的、参の的と射抜いていきます。的は54センチ四方の板。その後ろには紙が仕込まれており、射抜かれた時にぱっと紙吹雪が舞います。的が射抜かれると、観客から大きな歓声が上がりました。

中には猛スピードで駆ける馬もおり、速すぎるせいで射手が射損じてしまう場面も見られました。若い馬は速度を出しすぎてしまうことがあるようです。しかし遅い馬の上が必ずしも射やすいわけではなく、遅く走る馬は上下に揺れるため、射手は体幹を鍛えておく必要があると場内で解説されていました。
 
浅草流鏑馬は、小笠原宗家の指導のもと、小笠原流で行われます。小笠原流は源頼朝に仕えた小笠原長清にはじまる流儀。小笠原家は徳川時代末まで代々将軍家の師範役を務め、今日に礼法や弓術、弓馬術を伝えています。小笠原家が伝えた礼法や作法は、射手の体幹を鍛え、弓術を上達させるといいます。

伝統を継承し、世界へ発信

江戸時代の浅草神社では、神事として行われていた流鏑馬ですが、今回で36回目を迎えた浅草流鏑馬は観光行事として開催されており、伝統行事を復活させて継承しようという想いが込められています。会場でお話を伺った31世宗家の小笠原清忠さんは、「古い伝統を守りながら次の代に伝えていけるので、こうした機会は非常に嬉しい」と話していらっしゃいました。
 
また、会場には多くの外国の方が来場しており、場内では英語での解説も行われました。さらに今年は日本とフランスの友好160周年にあたることから、在日フランス大使館の方が総奉行を務めるなど、伝統的でありながら国際的な面も見られました。
 
江戸から明治に変わって150年。台東区では本年を「江戸ルネサンス元年」と位置づけ、江戸の魅力の継承と未来への発展に向けた事業を展開する予定です。皆様も是非、歴史や伝統文化に触れてみてはいかがでしょうか。
 

開催概要

日程 平成30年4月21日(土)
草鹿(くさじし)  11時45分~
流鏑馬(やぶさめ) 13時~
場所 草鹿は、台東区立隅田公園山谷堀広場にて
流鏑馬は、言問橋付近 台東区立隅田公園特設会場にて
前売観覧券 前売観覧券:1席3千円 
※草鹿の観覧は無料

 
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俳優・水谷豊さん登場!「プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画」内覧会レポート

東京都美術館

2018年4月14日(土)から2018年7月8日(日)の期間、『プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画』が東京都美術館にて開催されます。開幕に先立ち、4月13日にプレス内覧会がおこなわれましたので、その模様をお伝えいたします。

文豪アレクサンドル・プーシキンの名を冠する国立美術館、プーシキン美術館。1912年に開館したモスクワ中心部の国立美術館で、古代エジプトから近代までの映画、版画、彫刻などを収蔵しており、特に印象派を中心とするフランス近代絵画コレクションは世界屈指と言われています。
『プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画』では、その珠玉のクレクションから17世紀〜20世紀の風景画65点が来日。神話の物語や身近な自然、パリの喧騒、果ては想像の世界まで、さまざまな情景を舞台にフランス近代風景画の流れをたどります。

報道内覧会では、本展のスペシャル・サポーター、および音声ガイドのナビゲーターを務める俳優・水谷豊さんが登場!本展の「旅の案内人」として、見どころを語っていただきました。

-ひと足先に本展をご覧になられたそうですが、ご感想をお願いいたします。

プーシキン美術館展のテーマは「旅する風景画」ということですが、見終わった後に素晴らしい旅をした気持ちになりました。モネの『草上の昼食』から『白い睡蓮』への流れが素晴らしいですね。すっと絵の中に引き込まれていくような感動もありましたし、まさにそこに自分がいるような気持ちを味わわせていただきました。

-今回初来日となる、水谷さんの後ろにありますクロード・モネの『草上の昼食』ですが、実際にご覧になって、やはり感じるものは違いますか?

そうですね。色々と想像していたのですが、写真で見るよりはるかに感動があります。これがモネの青春時代の作品だということを聞きますと、若い時から才能が花開いていたことが実物を見るとよくわかりますね。

-他に印象に残った絵はありましたか?

面白かったのはアンリ・ルソーの『馬を襲うジャガー』という作品です。私が聞いたところでは、ルソーはパリの植物園に通い、そこで熱帯植物を観察しながら思いをはせて描いたということで、つまり想像の作品なんですね。われわれもどちらかといえば「妄想」が仕事ですが(笑)、イマジネーションでここまで描けるのはすごい。不思議なオーラがある作品だと思います。

「ぜひたくさんの方にこの旅の感動を味わっていただきたい」と聴衆に語りかける水谷さん。ぜひ、音声ガイドで水谷さんの「推理」の世界・・・ではなく、叙情あふれる「旅の風景画」の世界に足を踏み入れてみてください!


それでは、会場風景と展示作品の中から一部をご紹介いたします。

第1章 近代風景画の源流

第2章 自然への賛美

第3章 大都市パリの風景画

第4章 パリ近郊-身近な自然へのまなざし

第5章 南へ-新たな光と風景

第6章 海を渡って/想像の世界

『プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画』は全6章構成となっています。神話の世界から都市、郊外、そして想像の世界へと。ロラン、コロー、ルノワール、セザンヌら巨匠たちの珠玉の絵画65点を、「旅」というキーワードを軸に紹介します。

また、風景画が絵画ジャンルとして自立していく過程を振り返る第1部(第1章・第2章)、大都市パリを起点に風景画の広がりを展観する第2部(第3章以降)とに大きくセクションが分けられています。

会場風景

17世紀に始まる風景画の黎明期では、聖書や神話にその主題が求められ、その背景に広がる自然は理想化して描かれていました。しかし、19世紀になる頃、絵画の受容者が王侯貴族から新興市民階級へと移ることで、その風潮に変化が生じます。身近に広がる自然を描くバルビゾン派の出現により風景画は現実的な表現へと歩みを進め、19世紀半ばの「パリ大改造」以降、印象派の画家たちは近代都市の情景を数多く描いていきました。
さらに、メディアの発達によりもたらされる世界各地の情報は、画家たちをさらに遠い、想像の世界へと導いていきます。

本展で体験できるのは、そうした風景画の創造と発展の物語。
まるで世界各地を旅するように、楽しみながら風景画の歴史をたどることができます。

展示作品

フェリックス・フランソワ・ジョルジュ・フィリベール・ジエム《ボスポラス海峡》 19世紀前半

まさに本展のテーマである「旅」を象徴するような絵画。描かれているのはヨーロッパとアジアの境界線、トルコのボスポラス海峡です。対岸に霞むイスタンブルの街並み、そして岸辺に佇むターバン姿の男たちが異国情緒をかきたてます。

もともと建築家を志していた画家ジエムは18歳で画家に転向。その後、パリに居を構えながらも積極的にヨーロッパ各地を旅してまわり、数多くのエキゾチックな風景画、とりわけ海景を描いた作品を残しました。

ギュスターヴ・クールベ《水車小屋》 1864年頃

フランス近代絵画を代表する画家のひとりであるギュスターブ・クールベは、農民や労働者の日常を題材とした絵画を数多く描き、物語画偏重であった当時のアカデミスムに対して「写実主義(レアリスム)」の枠組みを打ち立てました。

本作で描かれているとされるのは、クールベの生まれ故郷であるフランス東部の村オルナン。水車小屋の周りに茂る木々と、勢いよく流れる川の流れを躍動感あふれるタッチで描き、自然の生命力を感じさせます。

アンリ・ルソー《馬を襲うジャガー》 1910年

画家として専門の教育を受けなかった異色の画家、アンリ・ルソー。本作ではジャングルを舞台に、獰猛なジャガーに襲われる馬の姿を描いています。凄惨な場面のはずなのに、どこか非現実的で奇妙な静寂を感じさせます。こちらを向いた馬の表情からは一切の感情が読み取れず、どこか居心地の悪さを感じてしまうのは自分だけでしょうか?

本作の制作にあたってルソーは「植物園の温室より遠くへ旅行したことはない」と述べています。つまり、動物園や植物園、そして入手できる資料を頼りにこの作品を生み出したということですね。20世紀のおけるメディアの発達、博物館や資料の拡充は、こうした芸術家たちの想像力を下支えし、さらなる遠い世界へと導いていきました。

クロード・モネ《草上の昼食》 1866年

本展覧会で初来日となる作品。印象派の誕生前夜、26歳となる若きモネの魅力があふれる絵画です。

本作ではパリから訪れた若者がピクニックを楽しむ様子が描かれており、最先端のファッションに身を包んだ若者たちと郊外のみずみずしい自然が見事に調和しています。光の反射と木漏れ日のつくりだす効果が清新な色彩と筆触で描かれており、まさにレアリスムと印象主義のあわい境界に立つ当時のモネの表現をよく伝えています。

舞台となったシャイイ=アン=ビエールはパリの南東60キロメートルほどにあるフォンテーヌブローの森にありますが、交通網の発達により、若者たちや芸術家がこぞって訪れる場所となっていました。本作は、もともと王侯貴族の狩場であったフォンテーヌブローの森の、この時代ならではの様子を伝えてくれます。

《草上の昼食》の作品解説をおこなう三浦篤氏

東大教授・三浦篤氏は《草上の昼食》を「印象派の出発点であり、歴史的にも、またモネの個人史においても転換点となる重要な作品」と評し、「初期のモネが試行錯誤するなかでこうした充実した作品を描いていたということを、多くの方々に知っていただきたい」と語りました。

《草上の昼食》は他にもモデルとなった男女、木の幹に刻まれたシンボルなど、さまざまな謎と驚きに満ちています。
滅多に館外に貸出されることがないという《草上の昼食》。この貴重な機会に、ぜひご鑑賞ください!

開催概要

「プーシキン美術館展――旅するフランス風景画」

会期 2018年4月14日(土)~7月8日(日)
会場 東京都美術館 企画展示室
開室時間 9:30~17:30(金曜日は 20:00 まで)
※入室は閉室の 30 分前まで
休室日 月曜日(ただし 4 月 30 日は開室)
問合せ ○公式サイト
http://pushkin2018.jp
○ハローダイヤル
03-5777-8600
観覧料 一般 1,600 円(1,400 円)、大学・専門学校生 1,300 円(1,100 円)、高校生 800 円(600 円)、65 歳以上 1,000 円(800 円)※( )内は前売・団体(20 名以上)料金、中学生以下は無料
※その他各種割引適応あり

記事提供:ココシル上野
https://home.ueno.kokosil.net/
 
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1カ月限定で名品ずらり!書道博物館の特別企画展を取材しました

台東区立書道博物館

企画展「みんなが見たい優品展パート14中村不折コレクションから 休館前の1ヶ月限り!書道博物館の名品ずらり」

かつて正岡子規が居住した「子規庵」の隣に佇む書道博物館。洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が蒐集した、中国や日本の書道史における貴重なコレクションが所蔵されています。

書道博物館は設備工事のため、2018年4月16日(月)~9月25日(火)までの約5カ月間、全館休館となります。この休館を前に特別企画として、2018年3月16日(金)~4月15日(日)の期間、所蔵する名品の数々が公開されています。本企画展を取材いたしましたので、ご紹介いたします。

祭祀に用いられた漢字、王からの褒美に用いられた漢字

甲骨文
小克鼎

本企画展では、現存最古の漢字資料となる「甲骨文(こうこつぶん)」が展示されています。殷時代(前13世紀頃)に、亀のおなかの甲羅や牛の肩の骨に刻まれた甲骨文。神の意志を占うために使用されました。甲骨文の時点で既に偏とつくりが見られます。

西周時代(前9世紀)に作られた「小克鼎(しょうこくてい)」は、王の近侍職に務める克という人物が任務を果たし、それを記念して造られた青銅器です。内側には功績に関する文が鋳込まれています。正面から眺めると、器が曲線を描いているにも関わらず、文が真っ直ぐに並んでいるように見えます。文字の長さを微妙に調節しているのです。当時の技術の高さを伺うことができます。

「篆書体」から「隷書体」へ。次第に書きやすい漢字に

神様に関わる場所で使われていた「篆書(てんしょ)」と呼ばれる漢字は、象形文字のような書体をしており、非常に書きづらい文字でした。漢の時代に入ると、曲線が減って書きやすくなった「隷書(れいしょ)」と呼ばれる書体へと推移していきました。

乙瑛碑
後漢・永興元年(153)
張遷碑
後漢・中平3年(186)

「張遷碑(ちょうせんひ)」は、中村不折が非常に好んだ作品でした。本作品を臨書し、その趣を学んでいます。実は、「新宿中村屋」の看板文字や清酒「真澄」のラベルには不折の書が使われています。それらの作品からは、「張遷碑」に似た風格を感じ取ることができます。

西嶽華山廟碑-長垣本-
後漢・延熹8年(165)

数多くのコレクションのうち、不折の自慢の一品は「西嶽華山廟碑-長垣本-(せいがくかざんびょうひ ちょうえんぼん)」でした。形の良さと力強さ、そして古意の味わいを持つ本作は、約1000年前に石碑から取られた拓本です。碑石はすでに失われ、拓本も4本しか現存していません。非常に価値の高い名品です。

砂漠が守った文書

荘子知北遊篇 第二十二
重要文化財
唐・8世紀頃

紙は非常に保存が難しい素材です。古いものほど肉筆は少なく、唐以前のものは絶無に近いと考えられていました。しかし1900年、中央アジアのタクラマカン砂漠から中国へ入る際の玄関口に位置する敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)内で壁が崩れ、中から4~6万の肉筆文書が発見されました。湿度が一定で虫の少ない砂漠の気候が、文書を守ったのです。本企画展では、この地域で出土し重要文化財に指定された肉筆文書が展示されています。

書の神様、王羲之

蘭亭序-張金界奴本-
秋碧堂帖所収
王羲之 筆 東晋・永和9年(353)

書の神様と称される王羲之(おうぎし 303~361)。肉筆は現存していませんが、その趣は複製で伝えられています。本企画展では、中国の書の歴史上で最高傑作とされる「蘭亭序-張金界奴本-(らんていじょ ちょうきんかいどほん)」を始め、王羲之の書の複製が展示されています。

ユネスコ「世界の記憶」の日本の古代碑

昨年、群馬県の「上野三碑(こうずけさんぴ)」がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。本企画展では三碑の拓本が公開されています。書を堪能するだけではなく、拓本技術に注目して「どの拓本が一番上手だろう?」という視点でご覧になっても面白いかもしれません。

ここまでご紹介した作品は全て「中村不折記念館」に展示されているものですが、本館にも貴重なコレクションが展示されています。

今回の取材では、書道博物館 研究員の中村 信宏(なかむら のぶひろ)さんに作品の解説をおこなっていただきました。同博物館の様々な場所には、くすっと笑ってしまう注意書きが貼られてあるのですが、それらは中村さんが書いたもの。訪れた際には、ぜひ探してみてください。

私たちの生活に欠かせない漢字。書道博物館では、その歴史を味わうことができます。皆様も足を運んで、書の魅力に触れてみてはいかがでしょうか。

中村 信宏さん。素敵な注意書きとツーショット
こちらは本館に置かれたもの。その心は…ぜひ本博物館で確かめてください。

開催概要

会期 2018年3月16日(金)~4月15日(日)
所在地 書道博物館 中村不折記念館
東京都台東区根岸2丁目10番4号
開館時間 午前9時30分~午後4時30分(入館は4時まで)
休館日 月曜日
ただし3月26日(月)、4月2日(月)はサクラ特別開館
入館料 一般500円(300円)
小、中、高校生250円(150円)
※( )内は、20人以上の団体料金
※障害者手帳をご提示の方及びその介護者は無料
※毎週土曜日は台東区在住・在学の小、中学生とその引率者の入館料が無料
※特定疾患医療受給者証提示者及びその介護者は無料
問合せ 03-3872-2645
URL https://www.culture.city.taito.lg.jp/eventdetails/show/00001c000000000000020000005400ab

 
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特別展「人体 -神秘への挑戦-」内覧会レポート

国立科学博物館

国立科学博物館では、2018年3月13日(火)~6月17日(日)までの期間、特別展「人体 -神秘への挑戦-」が開催されます。3月12日に内覧会が開催されましたので、その様子をレポートいたします。

私たちの体は神秘に満ちています。私たちはなぜ生きることができ、動くことができるのか。人類はルネサンスの時代からこの謎に挑んできました。本展覧会では、レオナルド・ダ・ヴィンチを始めとする先人の功績を振り返りながら、人体の構造と機能を解説。さらに最新技術で明らかになった事実が紹介されます。

人類はどのように「人体」に挑んできたか

絵画のために解剖を行ったレオナルド・ダ・ヴィンチ

画家として名をなしたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、「アンギアリの戦い」に登場する極限の戦士の姿をよりよく描き出すために、病院で承諾を得て人体解剖を行いました。いざ解剖を始めると、関節の機能や、心臓の動きを解剖学者以上に考察し、人体の構造を自らの方法で把握したといいます。

レオナルドは解剖で得た所見と、先人の文献から得た知識を合わせ、多数の紙片に記述。それらは後代になってまとめられ、「解剖手稿」と名付けられました。

レオナルド・ダ・ヴィンチが考えた脳の構造

レオナルド・ダ・ヴィンチ「解剖手稿」より頭部断面、脳と眼の結びつき部分 1490-92年頃
ウィンザー城王室コレクション所蔵
Royal Collection Trust/© Her Majesty Queen Elizabeth II 2018

頭の内部の中央に3つの丸い脳室が描かれています。当時は脳室こそが生命精気に満たされた脳機能の中枢と考えられていました。この図においてもそこに視神経が走行する様子が描かれています。また左側には頭の層構造の比喩としてタマネギが描かれています。

解剖学の普及に貢献した人体模型

蝋による人体模型、ワックスモデル

古来より彫刻の材料とされてきたワックス(蝋)。それを解剖学的に用いたワックスモデルは、17世紀末のボローニャの職人、ガエタノ・ジュリオ・ズンボ(1656-1701)によって作成が始まりました。しかし17世紀には死体を保存する方法が無かったため、継続的に観察を行うためには常時鮮度の良い死体を解剖する必要がありました。1体のワックスモデルを作成するにあたり、およそ200体以上の死体が用いられたといいます。

頭頸部のワックスモデル 19世紀
日本歯科大学 医の博物館所蔵

教材として生まれた人体模型、キンストレーキ

19世紀に入って解剖学教育が重視され、教育用の人体模型の需要が高まりました。それまで模型といえばワックスモデルでしたが、高価かつ脆いため教材としては不適切でした。そこで、フランスの解剖学者ルイ・トマ・ジェローム・オヅー(1797-1880)は張り子製の人体模型を考案。耐久性に富み、解体および組み立てが可能だったので、大いに流行しました。日本には江戸後期にオランダを経由して輸入されています。

「キンストレーキ」(男性)19世紀
金沢大学医学部記念館所蔵
「キンストレーキ」(女性)19世紀
福井市立郷土歴史博物館所蔵
(※3月13日(火)~5月17日(木)までの期間限定展示)

人を人たらしめるもの、脳

進みゆく脳の理解

網状説…脳の神経はつながっている?

イタリア人医師カミッロ・ゴルジ(1843-1926)は1873年、硝酸銀を用いたゴルジ染色法を開発し、脳の神経細胞を観察することに成功。この観察からゴルジは、脳の神経は連続的につながり網状の構造を呈しているとする「網状説」を主張しました。

「脳の神経線維模型」 スイス、ブシ社製 1893-1910年
ブールハーフェ博物館所蔵
©Rijksmuseum Boerhaave, Leiden V25313

ニューロン説…脳の神経はつながっておらず、何らかの情報伝達が行われる

スペインの医師であり神経解剖学者のサンチャゴ・ラモン・イ・カハール(1852-1934)は、光学顕微鏡を用いた詳細な観察から、「脳の神経は非連続的に配置され、隣接した細胞間で何らかの情報伝達が行われる」とするニューロン説を主張しました。

1906年、ゴルジとカハールはノーベル賞を同時に受賞したものの、その席での講演内容は両者相反するものでした。両名の死後、電子顕微鏡を用いてシナプス間隙が確認されたことで、ニューロン説に軍配が上がりました。

網状説とニューロン説の対比 サンチャゴ・ラモン・イ・カハール 1923年
カハール研究所所蔵
Cajal Institute, “Cajal Legacy”, Spanish National Research Council (CSIC), Spain.
※ゴルジの網状説(図中左)とニューロン説(右)の差を説明するためにカハールが描いた模式図

21世紀の人体研究

”脳が司令塔”という概念を覆す、新たな人体観

技術の進歩によって、体内で起こる現象が分子や原子のレベルで理解される現在。最新研究では、脳が全身の司令塔であるという既成概念が覆されつつあり、あらゆる臓器同士が脳を介さず直接情報をやりとりしながら助け合っていることが明らかになってきています。

本展覧会では4Kスーパーハイビジョンによる体内の映像が紹介されているほか、臓器たちの”メッセージ”が飛び交っている体内を色や音で表現した空間が用意されています。

腎臓の糸球体
©甲賀大輔・旭川医科大学/日立ハイテクノロジーズ/NHK
※画像はラットで撮影。白黒画像にイメージで色を付けています。
精巣の精細管
©甲賀大輔・旭川医科大学/NHK
※画像はラットで撮影。白黒画像にイメージで色を付けています。

最も身近であり、同時に壮大なテーマである「人体」。皆さまも本展覧会に足を運び、私たちの体が持つ神秘について思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

開催概要

展覧会名 特別展「人体 ー神秘への挑戦ー」
会場 国立科学博物館
会期 2018年3月13日(火)~6月17日(日)
休館日 ※3月26日(月)、4月2日(月)、4月30日(月・振替休日)、6月11日(月)は開館
時間 午前9時~午後5時(金・土曜は午後8時まで)
※入場は各閉館時刻の30分前まで
夜間延長 ゴールデンウィーク中の夜間延長について
【午後8時まで】4月29日(日)、30日(月・振替休日)、 5月3日(木・祝)
【午後6時まで】5月1日(火)、2日(水)、6日(日)
料金 一般・大学生:1,600円
小・中・高校生:600円
URL http://jintai2018.jp

記事提供:ココシル上野
https://home.ueno.kokosil.net/
 
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「ブリューゲル展 画家一族 150年の系譜」内覧会レポート

東京都美術館

2018年1月23日(火)から2018年4月1日(日)まで、東京都美術館では、「ブリューゲル展 画家一族 150年の系譜」が開催されています。1月22日に内覧会が開かれましたので、その様子をレポートいたします。

ピーテル・ブリューゲル1世は、16世紀のフランドル(現在のベルギーにあたる)を代表する画家です。その画家としての才能は脈々と一族に受け継がれ、息子のピーテル・ブリューゲル2世、ヤン・ブリューゲル1世、そして孫、ひ孫まで、150年に渡って優れた画家を輩出し続けました。

本展は、およそ100点を通じて一族の画業を辿るものとなります。画家ごとに区切って作品を展示するのではなく、テーマごとに一族の作品を並べて展示しているので、画家たちを比較して、それぞれの独自性や共通点が発見しやすくなっています。また、展示される作品のほとんどが日本初公開となっており、その点においても、是非とも足を運びたい展覧会となっています。

展示構成

第1章 宗教と道徳
第2章 自然へのまなざし
第3章 冬の風景と城砦
第4章 旅の風景と物語
第5章 寓話と神話
第6章 静物画の隆盛
第7章 農民たちの踊り

ブリューゲル一族 略図

ピーテル・ブリューゲル1世(1525/30-1569)
息子 ピーテル・ブリューゲル2世(1564-1637/38)
ヤン・ブリューゲル1世(1568-1625)
ヤン・ブリューゲル2世(1601-1678)
アンブロシウス・ブリューゲル(1617-1675)
ひ孫 ヤン・ピーテル・ブリューゲル(1628-1664)
アブラハム・ブリューゲル(1631-1697)

それでは、会場風景と展示作品の中から一部をご紹介いたします。

第1章 宗教と道徳

ピーテル・クック・ファン・アールストと工房
『三連祭壇画 東方三博士の礼拝(中央)受胎告知(左翼)とキリストの降誕(右翼)』
1540-1550年頃
マールテン・ファン・ファルケンボルフ ヘンドリク・ファン・クレーフェ
『バベルの塔』
1580年頃

今日多くの研究者が美術史上初のシュルレアリストと見なす、ヒエロニムス・ボス。彼の描く幻想的なヴィジョンに憧れたピーテル1世は、同じ様式で絵画や版画を制作し、「第二のボス」と呼ばれるようになりました。ピーテル1世の作品には、ボスが描いたような異形のものや、おどけたものが見られます。

ピーテル・ブリューゲル1世[下絵]フィリップス・ハレ(帰属)[彫版]
『希望』
1560年

一方で、ピーテル1世とボスには相違も存在します。人間の善良さと邪悪さを対比して描くボスの作品は、死後に救済されるか地獄へ落されるかは現世での振る舞い次第であることを、人々に自覚させるものでした。それに対し、ピーテル1世は、人間の邪悪さへの批判や非難を目的とするのではなく、人の営みを冷静に観察し、作品に落とし込んでいます。

第2章 自然へのまなざし

ピーテル・ブリューゲル1世 ヤーコプ・グリンメル
『種をまく人のたとえがある風景』
1557年
ヤン・ブリューゲル1世
『エジプト逃避途上の休息』
1602-1605年頃
ヤン・ブリューゲル2世
『市場からの帰路につく農民たち』
1630年頃

ヤン1世や2世が鳥瞰で描く自然。そこには不思議な奥行きがあり、鑑賞者を絵画空間へ引き込みます。

16世紀、イタリアではミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチといった画家たちが理想的な人体を描いていた一方で、ネーデルラント(※)では宗教改革により、聖書の物語や人体よりも、自然の偉大さに関心が移っていきます。かつて絵画の一部分にすぎなかった自然ですが、本章で展示される作品では、自然こそがテーマとなっています。

※現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに、フランスとドイツの一部を含めた地域

第3章 冬の風景と城砦

ピーテル・ブリューゲル2世
《鳥罠》
1601年

風景画の一分野として冬の農村風景を初めて描いたのはピーテル1世でしたが、冬の風景を広め、一分野にまで高めたのはピーテル2世でした。冬景色は、ピーテル2世のおかげで普及し、フランドル芸術を象徴するようになります。それらの作品は、厳しい寒さや北方の風景に結びつくあらゆる感覚を伝えています。

内覧会での解説において、美術評論家のセルジオ・ガッディさんは、《鳥罠》こそ、ブリューゲル一族の象徴的な作品だと話していらっしゃいました。《鳥罠》には、いつ割れてもおかしくない川でスケートをする人々の命の危うさと、罠につられている鳥の無自覚さが相似となっています。教訓的な絵画を、宗教画ではなく、日常的な風景画として描いているのです。

『鳥罠』を解説するセルジオ・ガッディさん

第4章 旅の風景と物語

16世紀の中頃までには、アウトウェルペンは新しい商業の中心地となり、貿易や旅行、大航海の要となっていました。船は、富や未知の品と情報をもたらす象徴となり、画家たちにとって、旅や貿易、行商は新たな画題となりました。

ヤン1世や、ヤン・ブリューゲル2世もまた、旅人や商人たちが行きかう街道を描いています。そして描くだけではなく、一族の画家のほとんどが、文化の中心であるイタリアを目指した旅人でもあったのです。

ピーテル・ブリューゲル1世[下絵]フランス・ハイス[彫版]
『イカロスの墜落の情景を伴う3本マストの武装帆船』
1561-1562年頃
ヤン・ブリューゲル1世
『橋のある運河沿いの家屋と馬車』
1615年頃

第5章 寓話と神話

実体のない概念を理解するために、寓意画は有効な手段だと見なされていました。寓話画や神話画を得意としたヤン・ブリューゲル2世は、エキゾチックで風変わりな情景に真実味を添えるため、オウムやライオンなど、外来の動物を付け加えています。また、ブリューゲル一族による寓意画の特徴として、草花の描写など細部への意識が強い点が挙げられます。

ヤン・ブリューゲル2世
『地上の楽園』
1620-1625年頃
ヤン・ブリューゲル2世
『嗅覚の寓意』
1645-1650年頃
(左から)
アンブロシウス・ブリューゲル『四大元素-火』1645年頃
アンブロシウス・ブリューゲル『四大元素-大気』1645年頃
アンブロシウス・ブリューゲル『四大元素-水』1645年頃
アンブロシウス・ブリューゲル『四大元素-大地』1645年頃
室内のディスプレイでは、絵画の細部を拡大して表示する映像が流れています

第6章 静物画の隆盛

17世紀中頃のネーデルラントでは、花や静物画は儚さという観念を含んだ、道徳的なメッセージを伝えるものでした。また、新大陸や東方から到来する新種の花に、人々は興奮しました。特に、チューリップは歴史上初の投機バブルの対象として知られており、静物画においても主役として描かれることが多くなります。ブリューゲル一族の画家たちも、好んでチューリップを描いていました。

ヤン・ブリューゲル1世 ヤンブリューゲル2世
『机上の花瓶に入ったチューリップと薔薇』
1615-1620年頃
アブラハム・ブリューゲル
『果物の静物がある風景』
1670年

第7章 農民たちの踊り

ブリューゲル一族の画家たちは、事実や物語の語り手でした。彼らの作品は、現実を再現し、日常生活を実際のとおりに伝えています。最終章となる本章で展示される作品では、農民や酔っ払いや物乞いの営みが主題とされ、人生の多様性や、沸き立つ陽気さが描かれます。

ピーテル・ブリューゲル1世[下絵]ピーテル・ファン・デル・ヘイデン[彫版]
『春』
1570年
ピーテル・ブリューゲル2世
『野外での婚礼の踊り』
1610年頃

ブリューゲル一族の作品を注意深く鑑賞すると、花の近くに虫が描かれていたり、貝が顔の形に並べられているなど、愉快な驚きや奇妙な発見がたくさんあります。

ヒエロニムス・ボスからピーテル1世が受け継ぎ、その後の一族へと継承された「ブリューゲル様式」。その特徴は、綿密に描かれた細部にこそ表れています。残念ながら写真と文章では、その緻密さの全てをお伝えすることが難しいため、ぜひ本展に足を運んで体感してみてください。

開催概要

展覧会名 ブリューゲル展 画家一族 150年の系譜
Brueghel: 150 Years of an Artistic Dynasty
会期 2018年1月23日(火)~4月1日(日)
開室時間 9:30‐17:30
金曜日は20:00まで
(入室は閉室の30分前まで)
休室日 月曜日、2月13日(火)
※ただし2月12日(月)は開室
会場 東京都美術館
公式サイト http://www.ntv.co.jp/brueghel/

記事提供:ココシル上野
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