【取材レポ】うえののそこから「はじまり、はじまり」荒木珠奈 展が東京都美術館で開催。かわいらしくも不穏な非日常の世界を旅する

東京都美術館
《記憶のそこ》2023年

 

ニューヨークを拠点に版画からインスタレーションまで幅広い表現活動を続けているアーティスト・荒木珠奈さんの初の回顧展「うえののそこから「はじまり、はじまり」荒木珠奈 展」が東京・上野の東京都美術館で開催中です。会期は2023年10月9日まで。

展覧会入り口
展示風景
展示風景

荒木珠奈さん(1970-)は、1991年に武蔵野美術大学短期大学部を卒業後にメキシコへ留学し、「明るさと暗さ」や「生と死」が共存する独特の文化に魅了されたといいます。その後もメキシコ滞在を繰り返しながら、現地で技法を学んだ銅版画をはじめ、立体作品、インスタレーション、アニメーションなど多彩な表現で独自の世界観をもつ作品を制作してきました。

2012年にはニューヨークに活動拠点を移し、意識的に移民として暮らすことで新たな一歩を踏み出し、近年では「越境」「多様性」「包摂」といったテーマに関心を寄せているとのこと。

本展は、そんな荒木さんにとって初めての回顧展。手のひらサイズの立体作品から、ワンフロア全体を使った「上野の記憶」に着想を得た大型インスタレーション《記憶のそこ》(2023/本展で初公開)など、初期作品から新作まで約120点のバラエティー豊かな作品群が展開されています。

展示は全4章構成。荒木さんの作品の魅力である人の営みや物語を想起させるモチーフや表現が、どこか親密さや懐かしさを感じさせると同時に、ざわざわと心がどこかに攫われるような、日常と非日常の境界を行き来する不思議な旅へ鑑賞者を誘います。

 

第1章「旅の『はじまり、はじまり!』」では、旅をモチーフとしたものや、メキシコでの滞在経験から着想を得て制作したものなど、比較的初期の作品を旅(展覧会)の始まりとして紹介しています。

《無題》1995年

入り口には、オルゴール仕掛けの作品《無題》(1995)が展示されていて、ネジは鑑賞者が自ら回すことができます。本作について荒木さんはギャラリートークで「1曲が流れているあいだ、それを聞きながら想像の旅をする、というイメージで制作した」とコメント。いくつもの空っぽの額縁は、これから始まる旅でのすばらしい出会いを予感させます。

左は《はじまり はじまり》2003年
左から《夜》《昼》1999年

《はじまり、はじまり》(2003)でカーテンが開くように、物語が始まるように展示がスタート。《昼》と《夜》(1999)は、「旅行先で泊まった部屋のベッドサイドに置いたり、電車の窓辺にある小さいテーブルに置いたりできる、携帯できる作品があったらすてきだな」という思いで制作したという折りたたみ式のユニークな立体作品。いずれも銅版画の技法で作られています。

左から《La calavera amarilla(黄色いガイコツ)》2005年、《¿Bailamos?(踊りませんか?)》2005年
《Una marcha de los esqueletos(ガイコツの行進)》2004年

ガイコツをモチーフにした《La calavera amarilla(黄色いガイコツ)》(2005)や《Una marcha de los esqueletos(ガイコツの行進)》(2004)からは、カラフルな装飾やイルミネーションで死者を陽気に迎える「死者の日」に代表される、メキシコ独自の死生観の影響が感じられるでしょう。

《Caos poetico(詩的な混沌)》2005年

《Caos poetico(詩的な混沌)》(2005)は、ランタンを思わせる暖かな光が散らばる幻想的な光景が広がります。こちらは、電柱から無断で電線を引き、家や屋台の灯りに使っていたメキシコ貧困層の人々のたくましい暮らしぶりや、その灯りで彩られた街並みが星空のようで非常に美しかったことからインスピレーションを得たというインスタレーション。

天井から電源コードが無数に吊り下がり、その先には家に見立てた小箱が取り付けられています。光の色だけでなくそれぞれ小箱の柄も異なり、荒木さんがメキシコで飲んだお茶の箱や、バスのチケット、ルチャリブレ(メキシコのレスリング)のチラシなどさまざまなアイテムが使われています。

その雑然とした様子は、カラフルなペンキで好き勝手に塗られた家々や、そこに住むメキシコシティの人々から荒木さんが感じたという「混沌と生きる強さ」がイメージの源になっているのでしょうか。

《Caos poetico(詩的な混沌)》2005年》/ 下から見上げると、また違った表情が楽しめます。

なお、本作は参加型の作品になっています。鑑賞者は展覧会ファシリテーター(鑑賞をサポートするボランティアの方々、愛称:ケエジン)の案内に従って、任意のソケットに小箱をつないで街並みのひとつにする体験ができました。

 

第2章「柔らかな灯りに潜む闇」では、光と闇をそれぞれ表現する2つのインスタレーションが対称的に配置されています。

《うち》1999年

荒木さんが子どものころに住んでいた団地をイメージして制作したという《うち》(1999)は、白いベニヤで作られた100個ほどの箱を白い壁に設置し、団地の家々に見立てたもの。

それぞれの箱にはランダムにナンバーが振られていて、鑑賞者はファシリテーターからカギを受け取り、ナンバーと一致する箱の扉を開けます。すると、内部から明かりがこぼれ、画一的な外観からは想像がつかなかった、版画で描かれたそれぞれの家庭の暖かな生活がみえてきました。

《うち》1999年
《うち》1999年/ 内側に塗られた蜜蝋がやさしい雰囲気を演出しています。

《うち》の壁を挟んだ反対側では、同作の小さな幸せが集まった日常の世界を塗りつぶすような、黒く禍々しい物体が頭上から広がる《見えない》(2011)が存在感を示しています。

《見えない》2011年/ 東北の街を飲み込んだ“黒い津波”を思わせます。

2011年、東日本大震災の後に制作された作品で、原子力発電所の事故をきっかけに、放射性物質という目に見えない危険なものが飛んでくるかもしれないという、当時の不安感や嫌悪感を視覚化しようと試みたもの。黒い物体は、メキシコで大量に仕入れたという竜舌蘭の繊維を黒く染め、団子状に丸めて貼り付けて制作したといいます。

 

第3章「物語の世界、国境を越える蝶」では、かわいらしくもどこか不安を覚えるような、荒木さんらしい詩情あふれる「物語の世界」をたっぷり紹介しています。

《Aurora theater》2000年
《遠野物語》2007年
《人形の劇場》2003年
《湖のよる》2000年

荒木さんの描く人物は、ほとんどがシルエットのみで表情はわかりません。ひとりぼっちで広大な世界に、ときには恐ろしげな“何か”に対峙しています。そこに孤独をみるのか自由をみるのか、それとも何かへの憧れを感じるのか。不思議と自己が重ねられ、記憶を揺さぶられながら、気づけば作品の世界に心が取り込まれていくようでした。

《夜の芯》2006年
《旅人のみた虹》2007年

メキシコ、チアバス地方に今も伝わるマヤの太陽創造神話を元にした絵本《NeNe Sol ―末っ子の太陽―》は、マヤ系先住民を中心メンバーとする版画工房「レニャテーロス工房」と荒木さんが共同制作したもの。会場には試作版と挿絵の原本が展示されています。まるで石彫のような独特すぎる装丁は、メキシコの彫刻家が原型を担当したそう。

《NeNe Sol ―末っ子の太陽―》試作版と挿絵、2011年

荒木さんは2022年に東京都美術館にて、さまざまな国にルーツをもつ子どもたちと一緒にワークショップ「昔ばなしが聞こえるよ」を開催。子どもたちは紙の素(パルプ)を使って蝶の形を模したテントや絵本づくりを体験し、自身のルーツのある国の昔ばなしも紹介し合ったということです。会場には実際に、そのとき制作したというテントが展示されています。

《むかし、むかし…》2022年

メキシコで出会った、越冬のため渡り鳥のように国々を移動するモナルカ蝶に関心をもっているという荒木さん。本作もモナルカ蝶が地面で羽を休めているイメージに着想を得て制作されたそうです。

トランプ政権下において移民という立場でアメリカに住んでいた荒木さんが見た、壁に阻まれて国境を越えられない難民たちと、国境にかかわらず世界を自由に移動できるモナルカ蝶に対する想いが本作に重ねられています。

テントの内部。ホッと落ち着く空間になっています。

また、テントは一時的に人が泊まったり、避難したりするための存在であることから、荒木さんは本作に「安心して隠れていられる場所というような意味を込めた」と明かしました。

 

第4章「うえののそこ(底)を巡る冒険」では、美術館の「そこ(底)」ともいえる天井高 10m の地下3階展示室の空間全体を使い、「上野の記憶」に着想を得た大型インスタレーション《記憶のそこ》(2023)が本展の旅のラストを飾っています。

《記憶のそこ》2023年

リサーチをするなかで、日本初の公園・博物館・動物園の誕生、関東大震災や東京大空襲、戦後の闇市の出現など多くの歴史的出来事の舞台となり、多様な国や地域の人々を惹きつけ、受け入れてきた上野という土地の混沌に魅力を感じたという荒木さん。

中央にある黒い鳥籠のような巨大なオブジェの周辺では、荒木さんが自身で撮影した上野の写真や、上野を扱った浮世絵など、過去と現在の上野の様子が断片的に映像で流され、天井から吊り下げられた「目」を象徴する1対の鏡が、「そこ(底)」に埋もれていた上野のイメージを浮かび上がらせる役割を担っています。

《記憶のそこ》2023年/ 内部に入ることができ、そこから鏡に反射し周囲に飛び交う映像や物体の影の動きを楽しめます。

オブジェは「過去や未来、美しいもの、下世話なものを大きく飲み込み、吐き出す、中空の籠、檻のようなもの」であり、その上部はまるで大きな手で握りしめたよう。柱の一部は内部から押し広げられたのか、あるいは外部からこじ開けられたのかのように湾曲しています。

この造形について荒木さんは、「鳥籠や檻というものは、鳥を守っているようでもあり、自由に飛んでいかないように閉じ込めているものでもあり、そういった二面性から出てきた形です」と解説しました。


本展について、「子どもたちや若い人たちにもたくさん見ていただきたいです。地下に潜ってちょっと不思議な体験を、旅するように楽しんでいただけたら」と話す荒木さん。地上から上野の「そこ」へ向かう旅は、また別の旅への憧れも喚起してくれました。

荒木さんが関心を寄せる、越境、多様性、包摂といった国や地域を越えて現代社会が共通して抱えるテーマについても思いが至る展覧会「うえののそこから「はじまり、はじまり」荒木珠奈 展」の開催は2023年10月9日までとなっています。

 

うえののそこから「はじまり、はじまり」荒木珠奈 展

会期 2023年7月22日(土)~10月9日(月・祝)
会場 東京都美術館 ギャラリーA・B・C
開室時間 9:30~17:30、金曜日は9:30~20:00(入室は閉室の30分前まで)
休室日 月曜日、9月19日(火)
※ただし、 9月18日(月・祝)、10月9日(月・祝)は開室
観覧料 一般 1,100円 / 大学生・専門学校生 700円 / 65歳以上 800円
※高校生以下は無料
※そのほか、観覧料の詳細は公式サイトでご確認ください。
主催 公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館
お問い合わせ 03-3823-6921(東京都美術館)
展覧会公式サイト https://www.tobikan.jp/hajimarihajimari

※記事の内容は取材時点のものです。最新情報は公式サイト等でご確認ください。

 

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る

【会場レポ】マヤの「赤の女王」初来日! 特別展「古代メキシコ」が東京国立博物館で開幕。マヤ、アステカ、テオティワカンの至宝が一堂に

東京国立博物館
「赤の女王」の展示

 

古代メキシコを代表する三つの文明の至宝を一堂に紹介する特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」が2023年6月16日(金)~9月3日(日)の期間、東京国立博物館(東京・上野)で開催中です。

会場入口
会場風景
会場風景、《装飾ドクロ》アステカ文明、1469~1481年、テンプロ・マヨール博物館

本展は、メソアメリカ(16世紀のスペイン侵攻までメキシコ~中米の一部地域に栄えた、文化要素を共有した古代文明圏)を代表する三つの文明「マヤ」「アステカ」「テオティワカン」に焦点を当てています。

メキシコ国内の主要博物館から厳選した碑文やレリーフといった貴重な出土品や考古遺物、約140件を近年の発掘調査の成果を交えて紹介。多様な自然環境から生み出された独自の世界観や造形美など、古代メキシコ文明の奥深さと魅力に迫ります。

会場展示より。各文明と都市遺跡の位置関係。

展示は「古代メキシコへのいざない」「テオティワカン  神々の都」「マヤ  都市国家の興亡」「アステカ  テノチティトランの大神殿」の4章構成。

第1章「古代メキシコへのいざない」

第1章「古代メキシコへのいざない」は、「トウモロコシ」「天体と暦」「球技」「人身供犠」といった3文明の共通テーマに沿った横断的な作品展示や、各文明の遺跡の映像を通じて、古代メキシコ全体の世界観を伝える導入部です。

特異な宇宙観を構成するメソアメリカにおいて天体と暦は大切な文化要素。本作の両端に表される金星は、惑星のなかで最も重要視されたといいます。/《夜空の石版》アステカ文明、1325~1521年、メキシコ国立人類学博物館
球技は単なる娯楽ではなく、人身供犠を伴う宗教的儀礼、外交使節を迎えての儀式など多くの意味合いがありました。/《球技をする人の土偶》マヤ文明、600~950年、メキシコ国立人類学博物館
写真右/王や権威の象徴、神秘的な力をもつものとしてメソアメリカの諸文明で崇拝されたジャガー。神への生贄として捧げられることも。/《ジャガーの土器》マヤ文明、600~950年、メキシコ国立人類学博物館

ここでは、前1500年頃にメキシコ湾岸地方に興ったメソアメリカのルーツであり、儀礼と結びついた王権や多くの神々の概念など、その後のメソアメリカ諸文明にさまざまな要素が受け継がれたオルメカ文明の存在を示す作品《オルメカ様式の石偶》も展示されています。

オルメカの宗教的概念を表す、人とジャガーの特徴を併せもつ幼児の像。/《オルメカ様式の石偶》オルメカ文明、前1000~前400年、メキシコ国立人類学博物館

第2章「テオティワカン 神々の都」

第2章「テオティワカン 神々の都」では、メキシコ中央高原にある海抜2300メートルほどの盆地の中央で、前100~後550年頃まで栄えたテオティワカン文明を取り上げています。

テオティワカンは当時の人々が信じていた宇宙的世界観にのっとり、「死者の大通り」を中心軸にピラミッドや儀礼場、宮殿タイプの建造物、厳格化された住宅群を組み込んだ、国家により統率された計画都市・大宗教都市でした。近年の研究で、最大10万人ほどが暮らしていたことが明らかになりつつありますが、使われていた言語や文字などは判明しておらず、まだまだ謎の多い文明です。

ここでは、テオティワカンを代表する「太陽のピラミッド」「月のピラミッド」「羽毛の蛇ピラミッド」という三つのピラミッドやその周辺から出土した作品を紹介。

壁面の「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」のグラフィックは、配置を実際のテオティワカンのものと合わせ、「死者の大通り」の雰囲気を伝えています。

展示室中央に露出展示されている《死のディスク石彫》は、1964年の発掘調査で、テオティワカンにあるピラミッドのうち最大の「太陽のピラミッド」正面の広場から出土したもの。
直径1mを越える石彫で、後光のように放射状に広がるモチーフと、頭蓋骨の口から突き出した舌が印象的です。メソアメリカでは日没を死、日の出を再生と捉えていて、本作は地平線に沈んだ(死んだ)夜の太陽を表していると解釈されています。

《死のディスク石彫》テオティワカン文明、300~550年、メキシコ国立人類博物館
「月のピラミッド」の展示。本作は生贄の埋葬墓から出土したもの。目力がすごい……。/《モザイク立像》テオティワカン文明、200~250年、テオティワカン考古学ゾーン

とくに存在感があったのは《羽毛の蛇神石彫》と《シパクトリの頭飾り石彫》の展示。
一辺約400mの大儀式場「城塞」の中心神殿である「羽毛の蛇ピラミッド」の四方の壁面を覆っていた大石彫の一部です。金星と権力の象徴である「羽毛の蛇神」と、時(暦)の始まりを象徴する創造神「シバクトリ」の頭飾りを表すとされています。

会場では、これらの石彫がピラミッドから突き出ている様子がわかるように造作が工夫されていました。

左から《シパクトリの頭飾り石彫》《羽毛の蛇神石彫》テオティワカン文明、200~250年、テオティワカン考古学ゾーン

羽毛の蛇神の波打つ胴体部に、シパクトリの頭飾りを配するモチーフが繰り返し彫られていることから、「羽毛の蛇ピラミッド」全体が聖なる王権や戴冠式を表す、メソアメリカで最初のモニュメントだと考えられているとか。

「羽毛の蛇ピラミッド」の地下にある深さ15m、長さ103mのトンネルの出土品のなかでは、巻貝の先端を切り取って吹き口とした楽器《トランペット》が目を引きました。本作にはテオティワカンではみられない、マヤ系の宗教センターの図像に類似した美術様式と内容の図像が描かれています。

音を出す巻貝といえば、日本では戦の合図に吹く法螺貝がイメージされますが、本作はどんな音が出るのでしょう。/左右とも《トランペット》テオティワカン文明、150~250年、テオティワカン考古学ゾーン
《鳥形土器》テオティワカン文明、250~550年、メキシコ国立人類学博物館

テオティワカン住居跡の埋葬体に副葬されていたのは、発掘者により「奇抜なアヒル」と命名された、貝などの華美な装飾をもつ動物形土器。多くの貝製品とともに発見されたことから、メキシコ湾との交易を担った貝商人にかかわる副葬品ではないかと考えられています。

《トランペット》や《鳥形土器》といった展示物は、テオティワカンが交易や市場の経済活動が盛んな多民族都市だったことを伝えています。

《嵐の神の壁画》テオティワカン文明、350~550年、メキシコ国立人類学博物館

その他、テオティワカンでの暮らしを想像させる壁画や土器も興味深いです。
テオティワカンの主神の一つである嵐の神、もしくは雨の神トラロクを表したとされる《嵐の神の壁画》のような多彩色の壁画は、多くのアパートメント式住居群や儀礼施設に描かれていました。

また、住居跡から多く発掘される香炉は、さまざまな装飾片を目的に応じて組み替えて作っていたとか。展示された《香炉》は矢や盾などのモチーフから、死んだ戦士の鎮魂の儀式用と考えられています。

《香炉》テオティワカン文明、350~550年、メキシコ国立人類学博物館

第3章「マヤ  都市国家の興亡」

第3章「マヤ  都市国家の興亡」では、前1200年頃~後16世紀までユカタン半島を中心に栄えたマヤ文明の文化や王朝について紹介。本展で最も多くの作品で構成されているセクションです。

マヤで明確な文化や統治形態が認識できる王朝が成立したのは後1世紀頃とされています。ただ、政治的に統一されたことはなく、無数の都市間の交易や外交使節の往来などの友好的な交流、時には戦争による覇権争いを通じて大きなネットワーク社会を形成しました。出土品はそうしたマヤ地域での多様な動向を伝えています。

宮殿に訪れた外交使節が貢物を捧げる様子が描かれた、カカオの飲料用に使われたと思しき土器。マヤの権力者にとって、王朝間での訪問と貢物の交換は重要な行事でした。/《円筒型土器》マヤ文明、600~850年、出土地不明、メキシコ国立人類学博物館
マヤ中部地域の大都市・カラクルムの王と、南西の辺境にあるトニナの王が球技をする様子が描かれた本作は、両国の外交関係を象徴するもの。《トニナ石彫171》マヤ文明、727年頃、メキシコ国立人類学博物館
マヤでは多くの敵を殺すことより高位の人間を捕虜に取ることが重視されました。トニナでは捕虜を描いた石彫が多く発見され、好戦的な傾向をうかがわせます。/《トニナ石彫153マヤ文明、708~721年、トニナ遺跡博物館

マヤで林立した都市のひとつに、400~800年頃に西部地域で栄えたパレンケという中規模都市がありますが、第3章ではパレンケの展示に力が入っています。とくに本邦初公開となる「赤の女王(レイナ・ロハ)」の墓の出土品は、王朝美術の傑作と名高い本展の目玉のひとつ。

「赤の女王」の展示

芸術の都パレンケは洗練された建築や彫刻、碑文の多さで知られており、その黄金時代はキニチ・ハナーブ・パカル王の治世(615~683)でした。
パカル王は外交と戦争によりパレンケの影響力を強めるかたわら王宮の拡大に力を注ぎ、マヤ地域でもっとも壮麗な建築物の一つにしたといいます。その遺体はパカル王自ら設計したとされる「碑文の神殿」という霊廟に収められました。

「赤の女王(レイナ・ロハ)」と呼ばれる遺体は、1994年に碑文の神殿の隣にある13号神殿で発見されたもの。その通称は真っ赤な辰砂(水銀朱)に覆われて埋葬されていたことが由来です。調査の結果、この人物はパカル王の妃であるイシュ・ツァクブ・アハウの可能性が高いとみられています。

「赤の女王」の展示。《赤の女王のマスク》マヤ文明、7世紀後半、アルベルト・ルス・ルイリエ パレンケ遺跡博物館

会場では13号神殿の石室をイメージした空間で、「赤の女王」の12件の副葬品をマネキンに装着して埋葬の様子を再現。《赤の女王のマスク》は孔雀石の小片で作られ、瞳には黒曜石、白目には白色のヒスイ輝石岩が使われているそう。

写真には写っていませんが、首飾りや冠といった美しい副葬品にまじって、何の変哲もない小さな《針》がマネキンの横にひっそりと展示されていたのが目に留まりました。奇妙に思えますが、糸紡ぎと織りはどの社会階層の女性も行う活動の一つであり、この針も「赤の女王」が日常的に使い、来世でも必要なものであったと考えられているとか。
身分にふさわしく飾り立てるばかりではなく、「生活に困らないようにしたい」という本人、もしくは周囲の人々の等身大の願いに共感を覚えます。

再現展示の隣では、「赤の女王」の発掘調査の映像資料も流れていました。

《96文字の石版》マヤ文明、783年、アルベルト・ルス・ルイリエ パレンケ遺跡博物館

また、パレンケ遺跡の王宮で見つかった《96文字の石版》の展示では、絵画的で美しい造形のマヤ文字をじっくりと鑑賞できました。

マヤ文字は表語文字と音節文字から構成される謎に満ちた言語ですが、現在700程度の文字と、数万と織りともいわれる多様な組み合わせが解明されつつあるとのこと。人々の行いは、神や先祖の事績を再現するものと考えられていたことから、文字は主に王と国の歴史や宮廷の儀礼を記すために用いられました。
本作でも、パレンケの王たちの即位について正確な日付とともに刻まれています。

《96文字の石版》(部分)マヤ文明、783年、アルベルト・ルス・ルイリエ パレンケ遺跡博物館

日本のように、マヤでも書跡は情報を伝えるためだけのものではなく芸術品として愛好されましたが、本作はその中でも最高峰に位置するものです。

パレンケをはじめとする多くの都市が衰退したあと、900年頃にユカタン半島北部でマヤ地域最大の都市となったチェチェン・イツァの出土品も見ごたえがあります。
なかでも《チャクモール像》は、解説を読んで本展イチの恐ろしさを感じた作品。像の腹の上には皿のようなものがあり、ここに供物や、時には人身供儀の生贄から取り出した心臓が置かれた可能性があるとか……。

《チャクモール像》マヤ文明、900~1100年、ユカタン地方人類学博物館 カントン宮殿

本展では「生贄」とか「人身供犠」とか、おどろおどろしいキーワードが頻出しています。こういった特有の慣習は3,000年以上にわたりメソアメリカで継続されたもので、現代の感覚からするとその残虐さに眉をひそめたくなるかもしれません。

しかし、それは単なる非人道的な儀礼行為ではなく、あらゆる生命体は神々の働きと犠牲により生まれ動いているため、人間も神々を敬い、人間にとって最も大切な生命を捧げて自然のサイクルと再生の原理を保たねばならない、という先住民たちの倫理観によるものでした。そこには、普遍的な神や自然への祈りが込められています。

こちらもチェチェン・イツァの出土品。トルコ石で作られたモザイク模様が美しい鏡の飾りで、戦士が腰の後ろに着けていました。《モザイク円盤》マヤ文明、900~1000年、メキシコ国立人類学博物館
チェチェン・イツァの「金星の基盤」と呼ばれる建物を飾っていた彫刻。584年の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年にあたることを示していると考えられています。/《金星周期と太陽暦を表わす石彫》マヤ文明、800~1000年、ユカタン地方人類学博物館 カントン宮殿蔵

第4章「アステカ  テノチティトランの大神殿」

第4章「アステカ  テノチティトランの大神殿」は、1325年にメキシコ中央高原のテスココ湖に浮かぶ島に、メシーカ人らナワトル語を母語とする人々が建国したアステカ王国の大都市、テノチティトラン(現在のメキシコシティ)の出土品を扱っています。人口は最盛期で20万を超え、スペイン侵攻によって1521年に陥落するまで繁栄しました。

ちなみに、メキシコ中央高原ではテオティワカン⇒トルテカ⇒アステカという順番で文明が興亡しています。ナワトル語で「神々の都市」を意味する「テオティワカン」という名称は、遺跡を発見したアステカ王国のメシーカ人が名付けたものでした。

軍事力と貢納制を背景に国力を強めたアステカでは、建築と絵画、なかでも彫刻において驚異的な発展がもたらされました。アステカが富を集結させたテノチティトランでは、国内外の作家たちが技巧や嗜好、伝統を分かち合い、歴史的に類をみないほどクリエイティブな環境を形成したといいます。

テノチティトランで生まれた独創的な造形美の一端を伝えるのは、勇ましい《鷲の戦士像》

今にも飛び立たんとしているかのよう。背面を含めて360度鑑賞できます。/《鷲の戦士像》アステカ文明、1469~1486年、テンプロ・マヨール博物館

テノチティトランの中枢には、太陽と戦争の神・ウィツィロポチトリ、雨と大地の神・トラロクを祀った一対の荘厳なピラミッド型の大神殿、テンプロ・マヨールが建てられていました。本作はその大神殿の北側にある「鷲の家」で発見されたもの。等身大で迫力があります。

戦闘や宗教に重要な役割を担った王直属の「鷲の軍団」の戦士とみなす専門家が多いようですが、戦場で勇ましい死を遂げて姿を変えた戦士の魂であるとか、ウィツィロポチトリの姿を表しているとか、今でもさまざまな説があるようです。

《トラロク神の壺》アステカ文明、1440~1469年、テンプロ・マヨール博物館

展示された彫刻作品の多くには、アステカで信仰された神々が表されていました。

《トラロク神の壺》は、ギョロリとした目の造形と鮮やかなブルーが印象的。
農耕社会であるメソアメリカでは、何世紀にもわたって降雨をコントロールしたいという強迫観念があったといいます。そのため、祈祷、供物、そして子供の生贄がことごとく雨の神であり、植物の萌芽に必要なあらゆるものを提供する「与える者」であるトラロクに捧げられました。

本作は水を貯える壺にトラロク神の装飾があることから、雨や豊穣の願いが込められたものと考えられています。

地下の冥界ミクトランを支配する神ミクトランテクトリを描いた骨壺。生贄の心臓を抜き出す神でありながら、生を与える役割も併せもちます。/《ミクトランテクトリ神の骨壺》アステカ文明、1469~1481年、テンプロ・マヨール博物館
骨壺に描かれた「煙を吐く鏡」を意味する名をもつ創造神テスカトリポカは不可視であり、槍か2本の矢で射抜かれたときにだけその姿を現すというかっこいい性質があります。《テスカトリポカ神の骨壺》アステカ文明、1469~1481年、テンプロ・マヨール博物館

展示の一つにグリーンの蛇紋岩でできた《マスク》があるのですが、第2章のテオティワカンの展示で紹介した《モザイク立像》と雰囲気がそっくり。じつは、まさにテオティワカン遺跡から掘り起こしたマスクをメシーカ人が磨き直し、目や耳飾りなど手を加えたもの、ということでした。

《マスク》テオティワカン文明、200~550年、テンプロ・マヨール博物館

メシーカ人をはじめとする後古典期後期(1250-1521)頃の人々は、過去の文明を掘り起こし、それらを魔術的な力をもつ聖なる物質とみなして自分たちの神殿に奉納していたとか。こういったつながりを感じられるのも本展の面白さです。

展示の最後では、テンプロ・マヨールの最新発掘成果を示すものとして、メソアメリカでは珍しい金で作られたペンダントや耳飾り、笏形飾りが一挙に公開されていました。

金製品の展示
金製品の展示。左から《テスカトリポカ神とウィツィロポチトリ神の笏形飾り》《トラルテクトリ神の笏形飾り》アステカ文明、1486~1502年、テンプロ・マヨール博物館

個性的な展覧会オリジナルグッズも多数展開されています。※商品は数量限定のため、完売となる場合があります。

会場では古代都市遺跡の魅力を伝える映像資料や臨場感あふれる再現展示など、展示空間の演出にこだわっていて、歩いているだけでも古代メキシコの空気を感じられました。展示物間に広く距離がとられていて鑑賞しやすいのもうれしいポイントです。

ちなみに、現在のところ会場内の展示物は個人利用に限りすべて撮影OKとなっています。(今後中止・変更の可能性もありますので、詳しくは館内表示や公式サイトの案内をご覧ください)

いまでもその土地に生きている人々に受け継がれる、古代メキシコの文化伝統の奥深さと魅力に迫る特別展「古代メキシコ」。開催は2023年9月3日(日)まで。

特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」概要

会期 2023年6月16日(金)~9月3日(日)
会場 東京国立博物館 平成館
開館時間 午前9時30分~午後5時

※土曜日は午後7時まで
※6月30日(金)~7月2日(日)、7月7日(金)~9日(日)は午後8時まで
※総合文化展は午後5時閉館
※入館は閉館の30分前まで

休館日 月曜日、7月18日(火)
※ただし、7月17日(月・祝)、8月14日(月)は開館
観覧料(税込) 一般 2200円、大学生 1400円、高校生 1000円、中学生以下は無料

※詳細は公式サイトのチケットページご覧ください。

主催 東京国立博物館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社
お問い合わせ 050-5541-8600(ハローダイヤル/午前9時~午後8時、年中無休)
展覧会公式サイト https://mexico2023.exhibit.jp/

※記事の内容は取材日(2023/6/15)時点のものです。最新情報は公式サイト等でご確認ください。

 

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る

【会場レポ】化石ではなくアートでたどる恐竜の姿。特別展「恐竜図鑑-失われた世界の想像/創造」が上野の森美術館で開催

上野の森美術館
左/ズデニェク・ブリアン《イグアノドン・ベルニサルテンシス》1950年、モラヴィア博物館、ブルノ
右/ズデニェク・ブリアン《タルボサウルス・バタール》1970年、モラヴィア博物館、ブルノ

化石や骨格標本ではなく、絵画を中心とした恐竜アートばかりを集めた異色の恐竜展、特別展「恐竜図鑑-失われた世界の想像/創造」が2023年5月31日(水)~7月22日(土)の期間、上野の森美術館で開催中です。

20世紀の恐竜絵画を代表する2大巨匠、チャールズ・R・ナイトとズデニェク・ブリアンの作品も多数出展されていることで注目される本展。会場の様子をレポートします。

会場エントランス

恐竜展というと化石や骨格標本を中心とした展示が思い浮かびますが、本展では普段それらの資料の脇に置かれている、化石などの学術的根拠に基づいて恐竜などの古生物を描いた生態復元図=「パレオアート(古生物美術)」にスポットを当てています。

約2億5000万年前~6600万年前の中生代の地球を支配していた恐竜は、19世紀前半の化石発掘を機に、生態復元図を通して一般に認知されるようになります。以降、多くの学者が芸術家と手を取り合って、太古のロマンあふれる古代生物の姿を再現しようと挑戦してきました。

展示風景
展示風景

会場では、黎明期に描かれた奇妙な復元図から、近年の研究に基づく現代作家の力作にいたるまで、世界各国から集められた約150点のパレオアートなどを展示。

恐竜の”発見”から今日までおよそ200年のあいだ、新発見のたびに学術的根拠が変わるなかで恐竜(古生物)たちの表現がどのように変化していったのかをたどります。

第1章「恐竜誕生―黎明期の奇妙な怪物たち」

展示は全4章構成です。第1章「恐竜誕生―黎明期の奇妙な怪物たち」では、19世紀の恐竜“発見”から間もない時期、限られた知見のもとで制作された作品群を紹介。現代に生きる我々が頭に思い浮かべる恐竜とはかけ離れた個性的な姿が楽しめます。

左/ジョージ・シャーフ(ヘンリー・デ・ラ・ビーチによる)《ドゥリア・アンティクィオル(太古のドーセット)》1830年、ロンドン自然史博物館

冒頭には、地質学者ヘンリー・デ・ラ・ビーチの原画によるリトグラフ《ドゥリア・アンティクィオル(太古のドーセット)》(1830)という、古生物の生態を復元した史上初の絵画のひとつといわれる貴重な作品を展示。

同作はイングランド南部のドーセット州で、魚竜イクチオサウルスや首長竜プレシオサウルスといった海棲爬虫類などを恐竜に先立って発見し、19世紀古生物学の発展に寄与したことで知られる女性化石採集者メアリー・アニングの功績をたたえるために制作されたものです。

本展ではリトグラフに加え、それを拡大して描いた大きな油彩画も出品。/ロバート・ファレン《ジュラ紀の海の生き物—ドゥリア・アンティクィオル(太古のドーセット)》1850年頃、ケンブリッジ大学セジウィック地球科学博物館

先史時代のドーセットの海岸を舞台に、アニングが発見した古生物が盛りだくさんで描かれています。注目は画面右でやけに大きく描かれたイクチオサウルスがプレシオサウルスの細い首に食らいついている様子。

本展の企画者である岡本弘毅さん(神戸芸術工科大学教授、元兵庫県立美術館学芸員)は「現代の研究から言って、魚竜が首長竜を襲うことは考えにくい。当時は魚竜のほうが圧倒的に強い、捕食者のイメージがあったことが伝わってくる」と話します。

1876年の作品でも、まだまだイクチオサウルスがプレシオサウルスに対して強気の姿勢。イクチオサウルスのたたまれた肢が妙にかわいい。/ベンジャミン・ウォーターハウス・ホーキンズ《ジュラ紀初期の海棲爬虫類》1876年、プリンストン大学地球科学部、ギヨー・ホール
こちらのイクチオサウルスは何を思ったのか、クジラのように頭から潮を吹いています。/エドゥアール・リウ―《イクチオサウルスとプレシオサウルス(リアス期)》(ルイ・フィギエ『大洪水以前の地球』(第2版・1863年)挿絵)1863年、個人蔵

また、本展ではメガロサウルスとともに最初に“発見”された恐竜であるイグアノドンのイメージ変遷の紹介に力を入れています。

“恐竜を発見した男”として有名なイギリスの医師でアマチュアの地質学者、ギデオン・マンテルにより、現生爬虫類のイグアナに似た歯をもつことから1825年に「イグアノドン(イグアナの歯)」と命名されたこの生物は、当初イグアナを巨大化したような姿で想像されていたようす。

ジョージ・シャーフ《復元された爬虫類 サセックス州ティルゲートの森で発見された化石をもとに》1833年、アレクサンダー・ターンブル図書館、ウェリントン

イグアノドンを描いた初期の作例、ジョージ・シャーフの《復元された爬虫類》(1833)では、巨大な体を地に這わせ、ヘビのように長い尻尾をうねらせるイグアノドンがひときわ大きく描かれています。

オーストリアの植物学者フランツ・ウンガ―の指導で描かれたイグアノドンも同様に、地を這う生物のイメージ。/ヨーゼフ・クヴァセク、フランツ・ウンガ―『様々な形成期における原始の世界』《ウィールデン層群期(白亜紀前期)》1851年、エリック・ビュフトー・コレクション

しかし、1853年頃制作の彫刻作品《水晶宮のイグアノドン》を見てみると、イメージがマイナーチェンジ。イグアノドンの4本の足が、ほ乳類のゾウやサイのように胴体からまっすぐ地面に降りていました。

ベンジャミン・ウォーターハウス・ホーキンズ《水晶宮のイグアノドン(マケット)》1853年頃、ロンドン自然史博物館

これは、当時もっとも大きな影響力をもっていたイギリスの古生物学者で、「ダイノサウリア(恐竜)」という言葉を作った人物であるリチャード・オーウェンの指導のもとで作られたもの。岡本さんによれば、この身体的特徴は現在の恐竜の定義の一つでもあるとか。

さらに、1878年~80年にベルギーの炭坑で、ほぼ完璧に近い形でイグアノドンの化石が発見されると、マンテルによる発見以来約50年にわたり広がっていたイグアノドンの復元のイメージが大幅に修正されることに。上半身を立ち上げていたこと、これまで鼻の頭のツノだと予想されていた骨は、じつは前肢の親指のスパイクだったことなどが判明したのです。

イグアノドンの全身骨格が復元されている様子。/レオン・ベッケル《1882年、ナッサウ宮殿の聖ゲオルギウス礼拝堂で行われたベルニサール最初のイグアノドンの復元》1884年、ベルギー王立自然史博物館、ブリュッセル

その後100年間近くにわたり、イグアノドンといえば前肢にスパイク状の鋭い親指をもち、二足歩行する生物というイメージでパレオアートに描かれることになりました。続く第2章、そして第4章でも、そのように修正されながら“進化”していったイグアノドンの姿を描いた作品が確認できます。

イグアノドンのイメージの変遷を追った復元像も展示。

そのほか第1章では、外見も挙動もやけに人間くさい不気味な恐竜たちが、襲われている仲間を尻目にすごすご退散する姿だったり、怪獣映画のように住宅地を闊歩する姿だったり、リアルな復元画というより物語画のように恐竜を描いた作品もあって興味深いです。当時の人々の恐竜に対するフワッとした認識や、イマジネーションの豊かさが垣間見られる内容でした。

《高層住宅に前足をかければ、6階のバルコニーで食事ができたかもしれない》(カミーユ・フラマリオン『人類誕生以前の世界』(1886年)挿絵)1886年、エリック・ビュフトー・コレクション

第2章「古典的恐竜像の確立と大衆化」

19世紀末から20世紀半ばのパレオアート黄金時代の作品を紹介する第2章「古典的恐竜像の確立と大衆化」では、この分野を語るうえで欠かせない2大巨匠、チャールズ・R・ナイトとズデニェク・ブリアンに大きくスペースを割いています。

第2章展示風景、チャールズ・R・ナイトの作品群

恐竜の発掘や調査の舞台は欧州から次第に北アメリカ大陸に移り、1870年代から90年代にかけては、二人の古生物学者が恐竜化石の発見を巡って「化石戦争(Bone Wars)」と呼ばれる壮絶な争奪戦を繰り広げました。結果、ステゴサウルスやトリケラトプスなど、おびただしい種類の恐竜が見つかり、中生代に生息した動物の多様性が明らかになります。

未知のベールを脱いだ新しい恐竜たちの姿をリアルにビジュアル化し、一般に普及させた最大の功労者が、アメリカの古生物画家であるチャールズ・R・ナイト(1874-1953)です。

チャールズ・R・ナイト《アガタウマス・スフェノケルス(モノクロニウス)》1897年、アメリカ自然史博物館、ニューヨーク
ナイトの初期の代表作/チャールズ・R・ナイト《ドリプトサウルス(飛び跳ねるラエラプス)》1897年、アメリカ自然史博物館、ニューヨーク

野生動物画家でもあったナイトは、現生の動物の絵を1000点近くも残しており、そうした活動で培われた観察眼や生物学的知見がパレオアートの制作にも役立ったとみられます。

ナイトの描く写実的な風景と、そのなかに配置されたいきいきとした恐竜や絶滅した生物たちの姿は、当時としては解剖学的にも自然環境の描写の面でも優れており、すぐに一般大衆からも専門家からも注目を集めるようになったとか。彼の作品は映画『ロスト・ワールド』(1925)や『キング・コング』(1933)などの映像文化にまで影響を与えました。

ナイト作品の展示では、彼の最大の傑作と言われるフィールド自然史博物館の壁画のための下絵スケッチのうちの1枚《白亜紀―モンタナ》(1928)が見逃せません。

チャールズ・R・ナイト《白亜紀―モンタナ》1928年、プリンストン大学

《白亜紀―モンタナ》は「ティラノサウルスvsトリケラトプス」という恐竜界のスターのライバル関係をイメージとして固定した記念碑的作品であり、恐竜画そのものを象徴する作品として広く知られるようになったそう。緊迫感のある構図は、後続の多くのアーティストたちが模倣や翻案に取り組んでおり、映画や漫画などエンターテインメントの世界でもたびたび登場していますので、一度は見たことのある方も多いはず。オリジナルはこれだったのかと感慨深く感じられました。

 

一方、ナイトより少し後の世代で人気を博したのがチェコスロバキア(現チェコ共和国)の画家ズデニェク・ブリアン(1905-1981)です。

ズデニェク・ブリアン《シルル紀の海の生き物》1951年、ドヴール・クラーロヴェー動物園
ズデニェク・ブリアン《ダンクルオステウスとクラドセラケ》1967年、ドヴール・クラーロヴェー動物園

ナイト作品は現実性を欠いた前時代のパレオアートから一線を画していましたが、ブリアンはさらに画家として優れた技量をもっていました。ヨーロッパ美術のリアリズムの伝統を踏まえた彼の作品は、実際に実物を見て描いたと言われれば信じてしまいそうなほど高い説得力があったのです。

想像で描いたとは思えない皮膚の皺などの細かな描写がブリアン作品の魅力のひとつ。/ズデニェク・ブリアン《アパトサウルス・エクセルスス》1950年、ドヴール・クラーロヴェー動物園
ズデニェク・ブリアン《プレシオサウルス・ブラキプテリギウス》1964年、ドヴール・クラーロヴェー動物園

ブリアンの描く古生物たちを見ていると、彼らには当然ながら体温があり、血の通った生き物であることが伝わってきます。

ブリアン作品は名著『前世紀の生物』(1956)をはじめとする書籍によって世界中で人気を博し、ここ日本でも1960年代~70年代に子供向けの図鑑や児童書に大量に転載・模写され、一時代の恐竜イメージの確立に決定的な役割を果たしたといいます。そのため、「この絵、どこかで見たことがあるな」と既視感を覚える作品が、この時期に恐竜図鑑に夢中になった世代の方にはとくに多く見つかるかもしれません。

左/ズデニェク・ブリアン《イグアノドン・ベルニサルテンシス》1950年、モラヴィア博物館、ブルノ
右/ズデニェク・ブリアン《タルボサウルス・バタール》1970年、モラヴィア博物館、ブルノ
ズデニェク・ブリアン《プテロダクティルス・エレガンス》1967年、ドヴール・クラーロヴェー動物園

従来、化石からは恐竜の色がわからなかったため、画家たちはそれぞれ推測で色を塗っていたのですが、それでも筆者の中ではステゴサウルスといえば胴体が緑っぽいグレーで、背板が赤っぽくて……というコントラストが強く印象づいています。《アントロデムス・バレンスとステゴサウルス・ステノプス》(1950)のステゴサウルスは、おそらくそのイメージの源泉の一つ。ブリアンの影響力の大きさを実感できました。

ズデニェク・ブリアン《アントロデムス・バレンスとステゴサウルス・ステノプス》1950年、ドヴール・クラーロヴェー動物園

本展には18点もの貴重なブリアン作品が集結。最大の見どころになっています。

また、同章では「木登りする恐竜」として人気を博したものの、そもそも研究のもととなった復元自体が間違っていたことが後になって発覚した悲しきヒプシロフォドンの在りし日の雄姿も拝めます。

凛々しい横顔が今となっては哀愁を誘います。/ニーヴ・パーカー《ヒプシロフォドン》1950年代、ロンドン自然史博物館

第3章「日本の恐竜受容史」

欧米で成立した恐竜のイメージは、19世紀末には日本にも入ってきていました。続く第3章「日本の恐竜受容史」はこれまでと方向性を変え、明治から昭和にかけての日本文化史のなかに根づいた恐竜を紹介。科学雑誌や子供向けの漫画、コナン・ドイルの『失われた世界』(1912)などの古典SFの翻訳といった書物はもちろん、恐竜を模したソフビ人形や石膏フィギュアなどの玩具類も展示されています。

恐竜をテーマにした数々の漫画を手掛けた所十三の代表作『DINO²(ディノ・ディノ)』の貴重な原画。/所十三『DINO²』漫画原稿、2002年、作家蔵
左/荒木一成/海洋堂《プラスチック・モデルキット(ケラトサウルス)》1978年、田村博コレクション
右/マルシン《ソフビ人形(スティラコサウルス)》田村博コレクション

さらに、恐竜のリアルな再現をすることが目的ではない一般的な美術、いわゆるファインアートの領域における恐竜のシンボリズムについても解説。(一部に平成~令和の作品も含む)

福沢一郎《爬虫類滅びる》(左)、《爬虫類はびこる》(右)、1974年、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館

日本にシュールレアリスムを持ち込み、社会風刺や文明批判を含む作品を数多く生み出した福沢一郎の《爬虫類はびこる》《爬虫類滅びる》(1974)は、恐竜の肢を大胆にメインに据えた構図が面白いです。青空から落日の強烈な色彩の対比、隆盛を誇った巨大な存在が儚くなり、それらにとって代わる存在として小さなほ乳類が群がる様子は、日本の派閥政治を風刺しているそう。

篠原愛《ゆりかごから墓場まで》2010-2011年、鶴の来る町ミュージアム

どれだけ美しい少女も老いや死からは逃れられないという西洋絵画の伝統的な「死と乙女」の図像を彷彿とさせる篠原愛《ゆりかごから墓場まで》(2010-2011)や、不要品のプラスチック玩具で作った恐竜像から、プラスチックの原料である石油がもとは恐竜などの生物の化石であることを想起させ、同時に大量生産・大量消費の問題を考えさせる藤浩志《Jurassic Plastic》(2023)など、展示されたファインアートはいずれも大作で見ごたえがありました。

第4章「科学的知見によるイメージの再構築」

第4章「科学的知見によるイメージの再構築」では再び話題が恐竜のイメージの変遷に戻ります。1960年代から70年代にかけての恐竜研究では「恐竜ルネサンス」とよばれる変革が起き、従来考えられていた鈍重な変温動物ではなく“活発に動きまわる恒温動物”だったという見解が示されるなど、恐竜像が大幅に刷新。新しい恐竜の姿を表現した作品が次々に生まれていきました。

ウィリアム・スタウト《沼地での殺害―クリトサウルスを襲うフォボスクス》1980年、福井県立恐竜博物館

展示では、ファンタジーアートの領域でもカルト的な人気を誇るイラストレーター、ウィリアム・スタウトや、映画『ジュラシック・パーク』の立体モデルを手掛けたマイケル・ターシック、美術解剖学をベースに恐竜を正確かつ迫力あるタッチで描く現代日本における古生物復元画の第一人者、小田隆など、1960年以降に登場した実力派パレオアーティストたちのバラエティ豊かな作品が競演しています。

左/マイケル・ターシック《ダスプレトサウルス・トロスス》1993年、インディアナポリス子供博物館(ランツェンドルフ・コレクション)
右/マイケル・ターシック《スティラコサウルス》1994年、インディアナポリス子供博物館(ランツェンドルフ・コレクション)
小田隆《追跡1》2000-2001年、群馬県立自然史博物館

現代のアーティストたちは、恐竜たちを機敏に動きまわらせています。水しぶきを上げながら猛スピードでティラノサウルスが走るジョン・ビンドン《嵐の最前線》(1996)や、敵なのか味方なのか、恐竜たちが一斉に動きだす瞬間を切り取ったようなグレゴリー・ポール《シチパチとサウロルニトイデス》(1989)などは、第2章で見た恐竜たちと比べて躍動感が段違い。

ジョン・ビンドン《嵐の最前線》1996年、インディアナポリス子供博物館(ランツェンドルフ・コレクション)
グレゴリー・ポール《シチパチとサウロルニトイデス》1989年、福井県立恐竜博物館

作品の視点にも個性が強く出ている印象です。吸い込まれるような美しく叙情的なパステル画で、太古の世界の光や空気を精緻に表現しているダグラス・ヘンダーソンの作品は、まるで上質な写真集を見ているかのよう。

クリトサウルスが水中を歩く肢だけを描くなど、視点の新しさが目を引きます。/ダグラス・ヘンダーソン《クリトサウルスとガー》1990年、福井県立恐竜博物館
ヘンダーソン作品はどれも静謐な雰囲気が漂っています。/ダグラス・ヘンダーソン《ティラノサウルス》1992年、インディアナポリス子供博物館(ランツェンドルフ・コレクション)

多くの画家が恐竜そのものに焦点を当てているのに対し、ヘンダーソンは当時の生育環境とともに恐竜を描き出す傾向が強く、《ティラノサウルス》(1992)や《隕石衝突》(1989)では恐竜がほとんどシルエットの状態。ピントを当てずに風景に溶け込むように描いています。

夕焼けを撮ろうとしたら偶然に鳥が写り込んだとか、森を歩いていたら木々の奥にリスがいるのを見つけたとか、そんなありふれた記憶が重なる巧みな構図にすっかり引き込まれました。

左/徳川広和《篠山層群ティラノサウルス上科》2015年、丹波市立丹波竜化石工房
右/徳川広和《タンバティタニス・アミキティアエ》2013年、丹波市立丹波竜化石工房

学術的知見が増えるなかで、恐竜の姿がクリアになっていく様子がアートで楽しめる特別展「恐竜図鑑-失われた世界の想像/創造」の開催は2023年7月22日(土)まで。太古の世界へのロマンがかき立てられる内容であるのはもちろん、こうして時代をまたいだパレオアートが一堂に会する機会は滅多にありませんので、ぜひチェックしてください、

特別展「恐竜図鑑-失われた世界の想像/創造」概要

会期 2023年5月31日(水)~7月22日(土)
※会期中無休
会場 上野の森美術館
開館時間 10:00 ~ 17:00(土日祝は 9:30 ~ 17:00)
※入場は閉館の 30 分前まで
観覧料(税込) 一般 2,300円、大学・専門学校生 1,600円、高・中・小学生 1,000円

※未就学児は無料(高校生以上の付き添いが必要)
※障がい者手帳をお持ちの方と介助者1名は無料
※団体割引あり。
※予約制ではありませんが、混雑時は人数制限を行う場合があります。
その他、チケットの詳細については公式ページでご確認ください。

主催 産経新聞社、フジテレビジョン、上野の森美術館
お問い合わせ ハローダイヤル 050-5541-8600(全日 /9:00 ~ 20:00)
公式サイト https://kyoryu-zukan.jp/

※※記事の内容は取材日(2023/5/30)時点のものです。最新情報は公式サイト等でご確認ください。

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る

若き芸術家たちの胎動とその軌跡。
【東京藝術大学大学美術館】「台東区コレクション展―文化・芸術の杜 上野を巣立った芸術家たち―」内覧会レポート

東京藝術大学大学美術館
《花ノモトニテ》ウエバ ヒロコ 平成11年度

昭和56年度に創設された「台東区長賞」を原点として、長年にわたって交流・連携を深めてきた台東区と東京藝術大学。台東区長賞を通じて世に飛翔した芸術家も多く、同賞は若手芸術家の育成に大きな貢献を果たしてきたといえるだろう。

本展では台東区長賞受賞作品のうち、学生たちが制作した渾身の作品40点が展示される。

 

展示会場風景

「台東区コレクション展―文化・芸術の杜 上野を巣立った芸術家たち―」で出展されているのは、東京藝術大学の優秀な学生を顕彰し、その卒業制作を台東区が収集した「台東区長賞」を受賞した作品群。すなわち、いずれも学生時代の作品です。

昭和56年度から始まった台東区長賞制度は、美術学部絵画科の日本画および油絵・版画から各1名に授与され、その作品が台東区が寄贈されるというもの(平成30年度から音楽分野も加わっている)。この受賞者にはその後第一線で活躍することになるアーティストが数多く含まれており、まさに若手芸術家にとっての登竜門としての役割も担っていたことがわかります。

昭和・平成・令和の表現の「変遷」をたどる

前半部では前回展(平成28年度)以降の作品を展示。入って左手の壁面では油絵・版画の受賞作を展示している
手前は《かき》(土屋 玲 令和4年度)。牡蠣の貝殻を様々な素材で表現し、その複雑な表情を再現した実験的な作品
入って右手の壁面(前半部)には日本画の受賞作を展示
《乱立》(三品 太智 令和元年度)は、乱立するテレビアンテナをイメージした作品。田舎出身だという三品氏は、ここに故郷の樹林を想起したのだろうか

本展のテーマとなるのは「変遷」と「多様性」。
この展覧会では昭和・平成・令和と3つの時代にわたって40年以上続く台東区長賞の作品の中から40点を展示。その後第一線で活躍した芸術家や、今後の飛躍が期待される近年の受賞者まで、彼らが学生時代の集大成とした制作した渾身の作品が一堂に会します。
一点一点の作品が魅力的なのはもちろん、時代時代におけるトレンドの変化、そして「日本画」「油絵」といった枠組みにとらわれない発想の多様性にも注目です。

後半部は第1回受賞作《迷宮》(手塚 雄二 昭和56年度)を筆頭に、42年間の集大成的な構成となっている
台東区長賞の歴代作品から厳選して展示。どの作品からもすでに卓越した技量を感じられる
手前は《叢》(佐々木 正 昭和57年度)、奥は《惑い》(四宮 義俊 平成14年度)。年代の大きく離れた受賞作を見比べられるのは趣深い
《 二人(崇浩と久美)》(土井原 崇浩 昭和61年度)。作者も「自分の出発点」と語る、夢をテーマにしたユニークな作品

本展は2部構成となっており、前半では前回展(平成28年)以降に台東区に収集された日本画、油絵・版画の受賞作を紹介。そもそも本来であれば6回目となる「台東区コレクション展」は東京2020大会に合わせて開催される予定でしたが、新型コロナウイルス感染症により延期され、7年ぶりの開催となりました。
前半部では、この7年間で生み出された若き芸術家たちの渾身の作品が一挙に展観されています。

一方後半部では台東区長賞の歴代作品の中から厳選して作品を展示。第1回受賞者の手塚雄二氏(東京藝術大学名誉教授)の作品を筆頭に、この42年間で同賞を受賞した珠玉の作品が並びます。

会場から感じられるのは、まさにこれから羽ばたこうとする若い芸術家たちの「胎動」のエネルギー。小説においては「処女作にはその作家のすべてがある」とよく言われますが、彼らのその後の作品に通底するテーマや作風をこれらの作品の中に見出すことができるのかもしれません。
すでに彼らの活躍を知っているファンにとっても、はじめて彼らの作品に触れる人たちにとっても、鮮烈な発見と感動を与えてくれる展覧会だといえるでしょう。

展示作品紹介

ここでは、展示作品の一部をご紹介します。

《迷宮》手塚 雄二 昭和56年度

現実の「会議」もこんなもの?動物たちが話し合う不可思議な空間

皆好き勝手な意見を言い合う会議。議長である女性の後ろにはどこまでも迷宮が広がっています。身の廻りの人々を動物にたとえ、混沌とした不可思議な世界を表現した作品です。(制作者より)

<手塚雄二>
1953年神奈川県生まれ。日本美術院同人・業務執行理事、東京藝術大学名誉教授、福井県立美術館( Fukui Fine Arts Museum ) 特別館長。現代日本画壇を牽引する日本画家として、現在も精力的に活動を続けている。

 

《野辺に枕で踊りまくれ》菊地雅文 平成4年度

自身の演出した舞台を「風景画」として再構成した作品

平成4年、南麻布三ノ橋。約2ケ月間毎週土日公開 週間読切演劇『名探偵は本当にいるのか』(総監督 小林晴夫) 搬出で持ち出した壁面を組み、第4話、自身演出部を再構成。全話見た人でもこの絵を見ていない人は多い。(制作者より)

<菊地雅文>
1968年神戸市出身。東京藝術大学美術学部絵画科油画卒業。絵画制作、演劇制作、音楽制作に携わり、国内外で個展、グループ展を多数行っている。「野辺に枕で踊りまくれ」は1992年共同演出・制作の舞台演劇 「濡れた羽根は空をつかめない」を風景画で体験することを目的として制作された。

 

《樹樹邂逅》井手 康人 平成元年度

光と闇が交錯する屋久島の神秘

大学院に入った頃、屋久島に一人で旅行に行きました。海岸線にガジュマル、森の中は原生林、山頂では豪雪になる島です。山小屋に泊まりながら写生をし、森の中を歩き回った印象を制作しました。縦横無尽に苔の生えた枝が伸び、闇と光が交錯した世界は神秘的で荘厳な空間です。(制作者より)

<井出康人>
1962年福岡県に生まれる。東京藝術大学大学院修了。現在、日本美術院特待。倉敷芸術科学大学芸術学部教授。女性や花が醸し出す柔和で幻想的な作風が特徴的とされる。

開催概要

会期 2023年6月17日(土) – 2023年7月9日(日)
会場 東京藝術大学大学美術館 本館 展示室3、4
開館時間 午前10時 ~ 午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 月曜日
観覧料 無料
主催 台東区、東京藝術大学
問い合わせ 050-5541-8600 (ハローダイヤル)
展覧会HP https://museum.geidai.ac.jp/exhibit/2023/06/taito2023.html
https://www.city.taito.lg.jp/virtualmuseum/index.html

その他のレポートを見る

【会場レポ】大回顧展「マティス展」が東京都美術館で開催。初期の傑作《豪奢、静寂、逸楽》が日本初公開、色彩の探求者の旅をたどる

東京都美術館

鮮烈な色彩によって美術史に大きな影響を与えたフォーヴィスム運動の中心的人物として知られる、20世紀を代表するフランスの巨匠アンリ・マティス(1869-1954)。その大規模な回顧展「マティス展」が東京都美術館で開催中です。会期は2023年8月20日まで。

初期の傑作《豪奢、静寂、逸楽》が日本初公開となることでも話題の同展を取材しましたので、会場の様子をレポートします。

展示風景
展示風景、《自画像》1900年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
展示風景、《アルジェリアの女性》1909年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
展示風景、右は《金魚鉢のある室内》1914年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
展示風景、マティスが表紙をデザインした『芸術・文芸雑誌ヴェルヴ』
展示風景、ヴァンス・ロザリオ礼拝堂の特別映像 ©NHK

約150点の名品で通覧するマティスの探求の旅

「色彩の魔術師」の異名をもつアンリ・マティス。目に映る現実から自由に色彩を解放した彼の絵画表現は美術史に革新を起こし、モダン・アートの歴史に忘れがたい足跡を残しました。

現在開催中の「マティス展」は、日本では約20年ぶりとなる大規模な回顧展。世界最大規模のマティス・コレクションを誇るパリのポンピドゥー・センターから名品、約150点が集結しました。絵画を中心に彫刻、ドローイング、切り紙絵、晩年の最大の傑作である南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂に関する資料まで、各時代の代表的な作品によって、マティスの造形的な冒険を多角的に紹介。感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩と光の探求に捧げた84年の生涯を通覧する内容になっています。

展示は全8章構成。
・第1章 フォーヴィスムに向かって 1895〜1909年
・第2章 ラディカルな探求の時代 1914〜1918年
・第3章 並行する探求―彫刻と絵画 1913〜1930年
・第4章 人物と室内 1918〜1929年
・第5章 広がりと実験 1930〜1937年
・第6章 ニースからヴァンスへ 1938〜1948年
・第7章 切り紙絵と最晩年の作品 1931〜1954年
・第8章 ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948〜1951年

新印象派、フォーヴィスム、キュビスム…実験を繰り返したマティスの多彩な絵画表現

年代順に並んだ作品群を見ると、マティスが短い期間に次々と画風を変化させていたことに気づくはず。いくつか例を挙げてみます。

1869年、フランス北部の裕福な家庭に生まれたマティスは、20歳を過ぎてから画家の道を志し、1891年にパリに上京しました。画家としてのアイデンティティを確立しようとしていた最初期の作品としては、パリ国立美術学校で教鞭をとっていた象徴主義の画家ギュスターヴ・モローに師事していた時期に制作した《読書する女性》(1895)を鑑賞できます。

第1章展示、《読書する女性》1895年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

カミーユ・コローの人物画の影響が感じられる、「これがマティス?」と驚いてしまうほど写実的で抑制された作風からは、いずれ20世紀美術を代表する巨匠となる片鱗はまだうかがえません。国家買上となり初めて商業的成功を収めた作品ですが、このような伝統的な画法はすぐに放棄されたようです。

第1章展示、《サン=ミシェル橋》1900年頃、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
第1章展示、《ホットチョコレートポットのある静物》1900-02年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

次第に《サン=ミシェル橋》(c1900)、《ホットチョコレートポットのある静物》(1900-1902)のように、数年後のフォーヴィスムの到来を予感させる、燃え上がるような鮮やかな配色の作品を制作するようになります。

第1章展示、《豪奢、静寂、逸楽》1904年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

そして1904年には、新印象派の中心人物ポール・シニャックの招きでひと夏をサントロペで過ごしたあと、彼から学んだ「筆触分割」技法を用いて初期の傑作《豪奢、静寂、逸楽》(1904)を完成させました。

日本初公開となる同作は、光に満ちた理想郷ともいうべき光景を、対象の固有色ではなく純色を使用した筆触分割で描いたもの。おおむね新印象派の作画の指針に忠実に従っているものの、よく見れば抽象化した人物は輪郭線で囲んで形態を保っているなど、指針にはない実験の痕跡が見てとれます。マティスが生涯にわたり課題とした“色彩と線描の衝突”という本質的問題は解決されないままでしたが、同作はマティスの画業において重要な一歩になりました。

翌年には早くもこの筆触分割を捨て、南仏コリウールで色彩と線描の衝突の問題に真正面から取り組みます。そこで、目に映る色彩ではなく、感覚を重視した自由で大胆な色彩表現と荒々しい筆致によるフォーヴィスムを創出したのでした。

第1章展示、《豪奢I》1907年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

しかし、フォーヴィスムの立役者として美術界でスキャンダルを巻き起こしたマティスですが、《豪奢、静寂、逸楽》の3年後に制作された《豪奢Ⅰ》(1907)を見ると、色彩は調和的で、筆触もフラットなものになっています。「マティスはフォーヴィズムの画家」というイメージを強くもっている方もいるでしょうが、実のところマティスのフォーヴィスム的傾向は数年も続かず、同作は1907年の時点ですでに絵画空間の探求が次のステージに進んだことを示しています。

安定して制作を続けていたマティスの生活を大きく変えたのは、1914年に起きた第一次世界大戦。自身の2人の息子や友人たちが動員され孤立したマティスは、状況に抵抗するかのように創作にのめり込み、革新的な造形上の実験を進めていきました。

第2章展示、《コリウールのフランス窓》1914年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

この時期の作品で目を引くのは、世界大戦勃発直後に制作された《コリウールのフランス窓》(1914)で、当時のマティスの心境を反映したかのような暗い色調の謎めいた一作です。生涯アトリエ(室内)で実験を繰り返したマティスにとって「窓」は重要なモチーフで、マティス作品において「窓」は内と外を切り離すものではなく、内外の空間が同じ一つのまとまりであることを明らかにするものだったようです。

西洋の伝統のなかでは視覚のメタファーとしても使われた窓。同作において、窓には当初バルコニーが描かれていましたが、最終的にすべて黒で塗りつぶされているという点が示唆的です。この窓は閉じているのか、開いているのか? そもそもタイトルで示されていなければ、これが窓だと認識できたでしょうか。未完のまま熟考の末に終止符が打たれたと考えられている同作は、「どれだけ要素を取り除いたらイメージが成立しなくなるのか」を極限まで突き詰めた構図で示した、マティスの創作の一つの臨界を印づけた作品です。

第2章展示、《白とバラ色の頭部》1914年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

《コリウールのフランス窓》を制作する一方で、マティスは肖像画にも取り組んでいました。コリウール滞在中に、キュビスムの画家ジュアン・グリ(フアン・グリス)と対話を重ねたのちに、自身の娘マルグリットをモデルにした《白とバラ色の頭部》(1914)を制作。マティスの作品のなかでは最もキュビスムの影響が色濃い一点とされています。

平坦で単純化された画面構成、幾何学化された人体。極限まで細部を排除し、かつモデルの本質を損なわないためにはどうすればいいかという、《コリウールのフランス窓》と同じようなラディカルな実験の結果が示されています。

 

ここまで紹介した作品だけでも、実験と熟考を繰り返しながら新しい絵画表現を取り入れていったマティスの貪欲な探求の姿勢が伝わるかと思います。しかし、展示内容的にはまだ第2章の中ほどであり、マティスのキャリアの半分も過ぎていません。第8章まで鑑賞すると、その画風の多彩さに、これが一人の画家を取り上げた回顧展だということを忘れてしまうほどでした。ただ、画風がどのように変化しても、色彩や形に対する意識の高さ、目に見えるものよりも情動を重視する姿勢は一貫しているように感じます。

第4章展示、《赤いキュロットのオダリスク》1921年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
第4章展示、〈緑色の食器戸棚と静物〉1928年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

画風の幅広さという視点で特に面白かったのは、第5章「広がりと実験 1930-1937」で鑑賞できる《夢》(1935)と《座るバラ色の裸婦》(1935-36)です。

第5章展示、《夢》1935年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
第5章展示、《座るバラ色の裸婦》1935-36年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

南仏ニースに拠点を移したのち、1930年代に入るとマティスはアメリカやオセアニアを旅し、新しい光と空間に触れて作品がさらに開放的、かつ広がりをもつようになりました。1920年代に伝統的な絵画観に回帰していた表現手段が、再び単純化していった時期でもあります。その頃に制作された《夢》と《座るバラ色の裸婦》は、着手したのが同年であり、没するまでマティスのお気に入りのモデルだった秘書のリディア・デレクトルスカヤを描いた裸婦像であること、青系の背景という多くの共通点がありながら、作品から受ける印象は大きく異なります。

目を閉じて寝そべる女性の上半身を画面全体に配置した《夢》は心地よい開放感に満ち、心理的かつ造形的な充足を表現している一方で、徹底した幾何学形態を選択した《座るバラ色の裸婦》は、消去や単純化といった度重なる操作の痕跡を露わに留め、優美なポーズをとっていた女性を亡霊めいた図式的な像に変貌させています。背景の中に人物の形態を挿入する方法について、無数のバリエーションを伴いながら追求したこの時期の熟考の様子を端的に表している2作品なので、ぜひご注目ください。

色彩と線描の調和を模索したマティスの到達点、生涯最後に手掛けた油彩画《赤の大きな室内》にも注目

晩年の傑作を複数展示する第6章「ニースからヴァンスへ 1938〜1948年」は、とくに十分な時間をとって鑑賞してほしいエリアです。

世界をひっくり返すような大きな冒険となったマティスの数々の実験は、すべて彼の色彩に満ちたアトリエの中で行われたといいます。そのため、アトリエ自体もマティスにとっての生涯を通じた重要なモチーフになりました。1939年、第二次世界大戦が勃発したころ、齢70近くになったマティスは、アトリエに花瓶、布地、家具といった手ずから収集した品々を注意深く配列しながら、それらを何度も描くことで事物の「本質」を自分の体にしみ渡らせるという作業を行うようになります。

第6章展示、《マグノリアのある静物》1941年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

マティスの代名詞ともいえる赤色が美しい、平面的で装飾性が強調された代表作《マグノリアのある静物》(1941)はこうした作業、何十点もの準備デッサンを制作したのちに満を持して完成させた作品。モチーフから本質のみを取り出すことで、星形のマグノリアの周囲を複数の事物が浮遊するように取り巻くといった表現に至っています。マティスが「あらんかぎりの力」を尽くしたと語った、画家お気に入りの一作です。

1943年、空爆の危機から逃れるためにマティスはニースから近郊のヴァンスに移り住みますが、ここで手がけられたのが最後の油彩画連作である「ヴァンス室内画」シリーズ。同展ではシリーズのうち、第1作となる《黄色と青の室内》(1946)と第13作目にして画家最後のキャンバス絵となった《赤の大きな室内》(1948)が展示されています。

第6章展示、《黄色と青の室内》1946年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
第6章展示、《赤の大きな室内》1948年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

とくに《赤の大きな室内》はマティスの色彩に関する仕事が凝縮された傑作と位置付けられていて、平面化された空間に、赤色、アトリエ、画中画といったマティス絵画の重要なテーマ群が巧みな構図で綜合されています。壁にかけられた2枚の絵画はどちらも既存のマティス作品からの引用です。左の筆書きによる白黒のデッサンはまるで窓のように空間に広がりをもたせるのみならず、右の色彩豊かな油彩画と対等に掲げられている様子が、色彩と線描の衝突という課題に挑み続けたマティスの営みをあらためて見る者に示しているように感じられました。

作品の魅力について、東京都美術館学芸員の藪前知子さんは「マティスにとって、世界は調和に満ちているもの。調和に満ちた世界から受ける感覚をどのように絵画の中に表現するかということで、異なる世界を束ねるようなさまざまな要素が、一枚の絵画の中に調和をもって存在している(作品を目指した)。それが実現されている」と語ります。

生き生きとした赤い背景の中で黒い輪郭線は軽やかに踊るよう。線と色彩が調和するだけでなく互いを開放し、幸福感がどこまでも続いていく。79歳という最晩年までマティスが歩みを止めなかったことを象徴するような作品です。

色彩と光にあふれたマティスの最高傑作「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」の美麗な特別映像も上映

ここまで展示のうち絵画作品をピックアップして紹介してきましたが、第3章では主要な彫刻作品、第7章では切り紙絵作品、第8章ではヴァンスのロザリオ礼拝堂に関する仕事を取り上げていました。

第3章展示風景

第3章「並行する探求―彫刻と絵画 1913〜1930年」の展示では、20年にわたって探求されたモチーフである〈背中〉連作が壁一面に並んで非常に迫力がありました。マティスは平面表現のイメージが強い画家ですが、彫刻を手がけた理由については「補足の秀作として、自分の考えを整理するため」と述べています。しかし、その重要度は低くなく、2次元と3次元の関係を模索する助けとなり、とりわけ粘土塑像は絵画ではまだ表現できない着想に形を与えるものとして好んだ手段でした。

第3章展示、《アンリエットI–Ⅲ》1925-29年、(Ⅰ:1925年/Ⅱ:1927年/Ⅲ:1929年)、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

肖像の表現を徐々に複雑化しながら、身体の構造を不正確に描写しても、人物のうちに秘められた本質的真実は隠されず、むしろ表に出てくることを証明しようとした〈アンリエット〉連作(1925-29)は、目に見えるものの再現に重きを置かなかったマティスらしさがつまっています。

第3章展示、《背中I–IV》1909–30年(Ⅰ:1909年/Ⅱ:1913年/Ⅲ:1916–1917年/IV:1930年)、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

4点の等身大の女性像である〈背中〉連作(1909-30)は、ⅠからⅣまで、一見女性の後姿を徐々に単純化した過程を表現したものに見えますが、実は初めからシリーズとして構成されたわけではなく、常に変化する単一の粘土彫刻として考えられたものでした。同シリーズの制作時期は、《ダンス》などのモニュメンタルな絵画の制作時期と重なっていることが指摘されています。これはマティスが、絵画と彫刻を連動させながら折々の造形的な課題を解決しようと試みたことを示しています。彫刻はマティスにとって、その造形活動全体にリズムを与えるものだったのです。

第7章「切り紙絵と最晩年の作品 1931〜1954年」の展示では、1940年代以降、病気によりベッドや車いすでの生活が中心になったマティスが集中して取り組むようになった、「ハサミで描く」切り紙絵作品を中心に紹介しています。

第7章展示、《ジャズ》1947年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

1943年から46年にかけて、マティスは切り紙絵20点を制作し、これをもとに革新的な画文集『ジャズ』を出版しました。タイトルは切り紙絵の即興性を強調したもの。有名な切り紙絵作品《イカロス》も同書の収録作品です。グワッシュで鮮やかに彩色された切り紙絵は、会場の黒い壁の上で踊るように軽快な印象を与えます。

第7章展示、大型の切り紙絵パネルをリネンに転写して作られた大判壁掛け。左は《オセアニア、空》、右は《オセアニア、海》1946年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

簡単に画面構成を試行錯誤することができ、輪郭線に悩むことなく色彩にフォーカスできるというメリットがある切り紙絵もまた、マティスの一連の絵画作品と不可分の表現でした。切り抜くという一つの動作のうちに、デッサン、ペインティング、彫刻を集約し、色彩と線描という二つの造形要素を統一する手立てにしたのです。

第8章展示風景

そしてクライマックスの第8章「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948-1951」では、最晩年にあたる1948年から1951年にかけて、マティスが自身の集大成として手掛けたヴァンスのロザリオ礼拝堂における仕事に関する豊富な資料を展示。

礼拝堂を一つの総合芸術作品として構想していたマティスは、デザイン、彫刻、切り紙絵などこれまで探求してきたあらゆる技法を駆使して、建物の設計、壁画、装飾、祭服、典礼用品のデザインに至るまですべて手掛けました。「最晩年」という言葉のイメージからは想像もつかないバイタリティーに驚かされます。

第8章展示、ヴァンス・ロザリオ礼拝堂の特別映像 ©NHK

この章では、同展のために撮り下ろされたヴァンス・ロザリオ礼拝堂の特別映像が上映されていました。ある晴れた日の、朝から夜まで表情を変える礼拝堂内の光の移ろいを美麗な4K映像で紹介するもので、ステンドグラスから零れる光の照らす様子の美しさには言葉を失います。この礼拝堂は「訪れる人々の心が軽くなる」ような空間でなくなはならないというマティスの信念を見事体現した、色彩と線、そして光が一堂に会する空間を、ぜひ鑑賞の最後に堪能してほしいです。

「マティス展」の開催は2023年 8月20日(日)まで。

「マティス展」開催概要

会期 2023年4月27日(木)~ 8月20日(日)
会場 東京都美術館 企画展示室
開室時間 9:30~17:30、 金曜日は20:00まで
※入室は閉室の30分前まで
休室日 月曜日、7月18日(火)
※ただし7月17日(月・祝)、 8月14日(月)は開室
観覧料 一般 2,200円、大学生・専門学校生 1,300円、65歳以上 1,500円

※本展は日時指定予約制です。
※観覧料、チケットの詳細は公式ページでご確認ください。

主催 公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、 ポンピドゥー・センター、 朝日新聞社、NHK、 NHKプロモーション
お問い合わせ 050-5541-8600(ハローダイヤル)
展覧会公式サイト https://matisse2023.exhibit.jp/

※記事の内容は取材日(2023/4/26)時点のものです。最新情報は公式サイト等でご確認ください。

 

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る

【取材レポ】「憧憬の地 ブルターニュ」展が国立西洋美術館で開催。モネやゴーガンはフランスの内なる”異郷”で何を得たのか

国立西洋美術館

19世紀後半から20世紀にかけ、各国の画家たちが訪れ制作に取り組んだフランス北西部のブルターニュ地方。古来より特異な歴史文化を紡いできたこの地を題材にした作品を集めた展覧会「憧憬の地 ブルターニュ ─モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」が東京・上野の国立西洋美術館で開催中です。
会期は2023年3月18日(土)~ 6月11日(日)まで。

報道内覧会に参加してきましたので、会場の様子をレポートします。

※記事の内容は取材日(2023/3/17)時点のものです。最新の情報は公式サイト等でご確認ください。

会場入口
展示風景
展示風景
展示風景、ポール・ゴーガン《ブルターニュの農婦たち》1894年、油彩/カンヴァス、オルセー美術館(パリ)
展示風景、リュシアン・シモン《曲馬場》1917年頃、油彩/カンヴァス、大原美術館
久米桂一郎《晩秋》1892年、油彩/カンヴァス、久米美術館

世界中の芸術家が憧れたフランスの内なる異郷「ブルターニュ」とは?

変化に富んだ雄大な自然、古代の巨石遺構や中近世のキリスト教モニュメント、ケルト系言語である「ブルトン語」を話す人々の素朴で信心深い生活様式。フランス北西部、大西洋に突き出た半島を核とするブルターニュ地方は、16世紀までブルターニュ王国として独立していました。

フランスに併合されたあとも独自の景観や文化を保った、フランスの内なる「異郷」。19世紀にロマン主義の時代を迎えると、新たな画題を求める多くの芸術家たちがブルターニュを目指しました。

本展「憧憬の地 ブルターニュ ─モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」では、画家たちを惹きつけた19世紀後半から20世紀初めに着目し、ブルターニュをモチーフにした絵画や素描、版画、ポスターなど約160点を展示。それぞれの画家たちがこの異郷に何を求め、見出したのかを探っています。展示作品は国内の 30カ所を超える所蔵先と海外2館から集められたもの。

第1章「見出されたブルターニュ:異郷への旅」

展示は全4章構成です。

第1章「見出されたブルターニュ:異郷への旅」では、19世紀初頭にロマン主義の画家たちがブルターニュを”発見”して以降、画家たちがブルターニュについてどのようなイメージを広めていったのか、イギリスの風景画家ウィリアム・ターナーの水彩画をはじめとした「ピクチャレスク・ツアー(絵になる風景を地方に探す旅)」の流行を背景に生まれた作品から紹介しています。

ウィリアム・ターナー《ナント》1829年、水彩、ブルターニュ大公城・ナント歴史博物館
アルフォンス・ミュシャ 左:《岸壁のエリカの花》 右:《砂丘のあざみ》、1902年、カラー・リトグラフ、OGATAコレクション
右はジョルジュ・ムニエ 鉄道ポスター:《ポン=タヴェン、満潮時の川》 1914年、カラー・リトグラフ、大阪中之島美術館(サントリーポスターコレクション)

コワフ(頭飾り)をかぶり民族衣装を着た女性像に代表される、ブルターニュのエキゾチックなイメージの理想化・定型化が大衆向けのポスターなどで横溢した一方で、ウジェーヌ・ブーダンやクロード・モネといった旅する印象派世代の画家たちの作品からは、ブルターニュのありのままの自然に真摯な態度で向き合っていたことがわかります。

ウジェーヌ・ブーダン《ダウラスの海岸と船》1870-73年 油彩/カンヴァス、ポーラ美術館

注目はモネの《ポール=ドモワの洞窟》(1886)と《嵐のベリール》(1886)。

1886年秋、ブルターニュ半島南岸の沖に浮かぶ、野趣あふれる風景で知られるベリール島で2か月半を過ごしたモネは、異なる時間や天候下での海岸の眺めを40枚近いキャンバスで捉えていて、これはそのうちの2作です。

クロード・モネ《ポール=ドモワの洞窟》1886年、油彩/カンヴァス、茨城県近代美術館
クロード・モネ《嵐のベリール》1886年、油彩/カンヴァス、オルセー美術館(パリ)

描かれているのは、穏やかな海と嵐の海という対称的な風景。《ポール=ドモワの洞窟》はタッチが穏やかで比較的リズミカルになっていますが、《嵐のベリール》はまるで嵐の中、自らの身体感覚が乗り移ったかのように、荒々しく筆が載せられているなど、モネの体験が絵に刻み付けられているかのよう。

モネは1890年代から、刻々と変化する光や大気の一瞬をキャンバスで捉えようと連作を発表し始めましたが、ベリール島での千変万化する天候の断崖を相手にした経験が、絵画連作の思索を深めるきっかけになったのではないか、と考えられているとのこと。

第2章「風土にはぐくまれる感性:ゴーガン、ポン=タヴェン派と土地の精神」

第2章「風土にはぐくまれる感性:ゴーガン、ポン=タヴェン派と土地の精神」では、ポール・ゴーガンをはじめとする、ブルターニュ地方南西部の小村ポン=タヴェンに逗留した画家たちの作品を展示。

第2章展示風景、ゴーガンの作品がズラリと並んでいます。

ゴーガンは、パリでの生活苦から逃れるように1886 年から1894 年までブルターニュ滞在を繰り返し、土地の風土や風習、人々の厚いキリスト教信仰や純朴な精神との交感のうちに、自身が芸術に求める「野性的なもの、原始的なもの」の思索を深めていったそう。

ポール・ゴーガン《ボア・ダムールの水車小屋の水浴》1886年、油彩/カンヴァス、ひろしま美術館

ゴーガンの展示作品は12 点(絵画10 点、版画2 点)あり、本展の見どころの一つになっています。年代順に並べられていて、カミーユ・ピサロ風の印象派様式を留める《ボア・ダムールの水車小屋の水浴》(1886)から、単純化したフォルムと色彩を用いて現実世界と内面的なイメージとを画面上で統合させる綜合主義様式が成熟した様子がうかがえる《海辺に立つブルターニュの少女たち》(1889)など、作風の変遷をたどっていけました。

ポール・ゴーガン《海辺に立つブルターニュの少女たち》1889年、油彩/カンヴァス、国立西洋美術館(松方コレクション)

《海辺に立つブルターニュの少女たち》は、手を握り合い、画家を見極めるかのように視線を投げる2人の少女を描いた作品。ゴーガン自身がこの地に見出そうとしていた「野性的なもの、原始的なもの」が、非常にたくましく大きな足や、質素な身なりなど、労働と貧しさに忍従する農民の子どもたちの姿に仮託する形で象徴的に表されています。

第3章「土地に根を下ろす:ブルターニュを見つめ続けた画家たち」

第3章「土地に根を下ろす:ブルターニュを見つめ続けた画家たち」では、19世紀末から20世紀初頭にかけて観光地化・保養地化が進んだブルターニュで、ついに別荘を構えるまでに至り、第二の故郷とした画家に注目。

アンリ・リヴィエール 連作「時の仙境」より:《満月》 1901年、カラー・リトグラフ、新潟県立近代美術館・万代島美術館  ※展示は5/7(日)まで
アンリ・リヴィエール 連作「ブルターニュの風景」より:《ロネイ湾(ロギヴィ)》 1891年、多色木版、国立西洋美術館

浮世絵版画にインスピレーションを得て、世紀末のジャポニズムをけん引したアンリ・リヴィエールは、独学で多色刷り木版画の制作に取り組みました。ブルターニュの牧歌的な情景に、リヴィエールが親しんだもう一つの“異郷”である日本のイメージを投影したのでしょうか。彼はブルターニュを和訳し、まるで日本であるかのように描いているのが面白い点。

1890年から1894年にかけて手掛けた木版40枚からなる集大成的な連作「ブルターニュの風景」は、繊細な色の諧調が目を惹きつけるばかりでなく、北斎を想起させる構図が日本人の筆者にとってはどこか親しみを覚えるものでした。

モーリス・ドニ《若い母》1919年、油彩/カンヴァス、国立西洋美術館(松方コレクション)
モーリス・ドニ《花飾りの船》1921年、油彩/カンヴァス、愛知県美術館
モーリス・ドニ《水浴》1920年、油彩/カンヴァス、国立西洋美術館(松方コレクション)

ナビ派を結成したモーリス・ドニは宗教芸術の振興に力を入れていた画家であり、敬虔なキリスト教徒であったことから、厚い信仰に根差すブルターニュの精神風土に共鳴していたといいます。展示でも《若い母》(1919)をはじめ、ブルターニュで過ごす家族の表象をキリスト教の図像伝統に則り描いている作品が目をひきました。

また、ブルターニュの海岸に古代ギリシャの海を投影した《水浴》(1920)など、現実と虚構が重なる地上の楽園のイメージからは、1895年以降、旅重なるイタリア旅行を経て傾倒した古典主義の影響を感じられます。

シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》1908-09年、油彩/カンヴァス、国立西洋美術館(松方コレクション)

ドニの明るく幸福感にあふれた風景から一転、次の展示では、レアリスムの系譜のなかでブルターニュの自然や風俗を描いた一派「バンド・ノワール(黒の一団)」による、黒を多用する重々しい色調の作品が続きます。

なかでもシャルル・コッテによる横幅約3.5mの大作《悲嘆、海の犠牲者》(1908-09)は圧巻でした。海の悲劇や自然の厳しさに忍従する人々を主題とする作品を多く手掛けたコッテの代表作。海難事故の絶えないブルターニュのサン島の波止場で、溺死した漁師を島民が弔う姿を伝統的なキリスト哀悼図に重ねて描いています。

シャルル・コッテ 左:《聖ヨハネの祭火》1900年頃、油彩/カンヴァス、大原美術館

コッテの作品ではほかにも、死者に祈りをささげる情景を描いた《聖ヨハネの祭火》(c.1900)が印象的でした。バロック絵画を彷彿とさせる明暗表現が美しく、焚火に照らされて浮かび上がる人々の表情が厳かでありつつ、少しゾッとするような雰囲気があります。

第4章「日本発、パリ経由、ブルターニュ行:日本出身画家たちのまなざし」

最後のセクションである第4章「日本発、パリ経由、ブルターニュ行:日本出身画家たちのまなざし」では、19世紀末から20世紀のはじめ(明治後期から大正期にかけて)、芸術先進都市パリに留学し、ブルターニュという“異邦の中の異郷”にも足を運び画題とした日本人画家たちに焦点を当てています。

久米桂一郎 《林檎拾い》1892年、油彩/カンヴァス、久米美術館
黒田清輝《ブレハの少女》1891年、油彩/カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館

日本近代洋画界の重鎮・黒田清輝はブルターニュを訪れた最初期の日本人画家で、東京美術学校教授となる以前、1891年に久米桂一郎とともにブレア島に渡っています。黒田の《ブレハの少女》(1891)は、ブルターニュの少女像としては珍しく髪を下した姿で描かれています。レンブラント風の室内の明暗対比や鮮やかな色彩対比が目をひく、黒田らしい穏やかな画風とは一線を画す荒々しさが魅力的な一作でした。

金山平三《林檎の下(ブルターニュ)》1915年、油彩/カンヴァス、兵庫県立美術館
森田恒友《イル・ブレア》1915年、油彩/カンヴァス、埼玉県立近代美術館
山本鼎《ブルトンヌ》1920年、多色木版、東京国立近代美術館  ※展示は5/7(日)まで

創作版画の普及に貢献した山本鼎もブルターニュに足を運んだ一人。日本人画家がブルターニュに取材したイメージとしてよく知られている《ブルトンヌ》(1920)は、滞在時のスケッチをもとに、帰国後完成させた木版画です。スケッチにあった背景を単純した地平線を強調した画面構成や,落ち着いた青と黒でまとめられた色調が、アイコニックに描かれたブルターニュの女性の静謐な雰囲気を醸し出しています。

岡鹿之助《信号台》1926年、油彩/カンヴァス、目黒区美術館

会場にはガイドブックやトランクなどの関連資料も展示されていて、それら資料や作品をとおしてブルターニュを旅するような気分になったことも楽しいポイントでした。

西洋東洋問わずさまざまな画家たちがブルターニュというひとつの大きな主題で制作に取り組んでいますが、異郷に何を見たのか、どのようなアプローチを行ったのかはまったく異なっていました。ブルターニュの風景の美しさを見つめ楽園を幻視した画家、貧しさや海難事故など厳しい現実を作品に昇華した画家。それぞれの個性にあらためて光を当てる意欲的な展覧会でした。

開催は2023年6月11日(日)まで。

「憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」概要

会期 2023年3月18日(土)― 6月11日(日)
会場 国立西洋美術館
開館時間 9:30~17:30(毎週金・土曜日は20:00まで)
※5月1日(月)、2日(火)、3日(水・祝)、4日(木・祝)は20:00まで開館
※入館は閉館の30分前まで
休館日 月曜日
※5月1日(月)を除く
観覧料 一般 2,100円、大学生 1,500円、高校生 1,100円

※中学生以下、心身に障害のある方及び付添者1名は無料。チケット購入・日時指定予約は不要です。
※大学生、高校生、中学生以下、各種お手帳をお持ちの方は、入館の際に学生証または年齢の確認できるもの、障害者手帳をご提示ください。

その他、詳細は公式ページでご確認ください。

主催 国立西洋美術館、TBS、読売新聞社
後援 在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本、TBSラジオ
問い合わせ 050-5541-8600(ハローダイヤル)
公式サイト https://bretagne2023.jp/

 

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る

【東京藝術大学大学美術館】「買上展 -藝大コレクション展2023-」会場レポート。明治~令和まで、藝大の歴史に刻まれた優秀作品が一堂に

東京藝術大学大学美術館

東京藝術大学が卒業・修了制作の中から買い上げた優秀作品を厳選して紹介する「買上展 -藝大コレクション展2023-」が、東京藝術大学大学美術館で2023年3月31日から開催中です。(会期は5月7日まで)

※紹介する作品はすべて東京藝術大学所蔵です。

展示風景
展示風景
展示風景、荒川由美《ひろがる》2016(平成28)年//乾漆

東京藝術大学(以下、藝大)は、前身である東京美術学校が1889年(明治22年)に開校してから現在まで、多岐にわたる美術作品や資料の収集を行ってきました。その膨大なコレクションを広く公開する機会として、大学美術館では毎年テーマを設けて「藝大コレクション展」を開催しています。

2023年の「藝大コレクション展」は、戦後1953年(昭和28年)より始まった、藝大が卒業・修了制作の中から各科ごとに特に優秀な作品を選定し、大学が買い上げる“買上制度”に光を当てています。

東京美術学校時代にも卒業制作を買い上げて収蔵し、教育資料とする伝統は存在していたそうで、現在、藝大が所蔵する「学生制作品」は1万件を超えるとか。

本展「買上展」は、その中から約100件という過去類を見ない件数を蔵出しし、藝大の歴史とともに日本の近現代美術史が生まれてきた場を振り返るもの。明治の大スターの日本画から、令和の気鋭アーティストによるミクストメディアのインスタレーションまでがつながる異色の展覧会です。

第1部 展示風景

展示は2部構成。

第1部「巨匠たちの学生制作」では、明治から昭和前期までの東京美術学校卒業制作に注目。卒業後に美術界の各分野で主導的な役割を果たした作家たちを選りすぐり、彼らのデビュー作とでもいうべき卒業制作品や、慣習的に卒業制作と同時に取り組まれていた「自画像」を展示しています。

横山大観《村童観猿翁》1893(明治26)年//絹本着色
下村観山《熊野御前花見》1894(明治27)年//絹本着色

会場に入ると、さっそく東京美術学校第1期生である横山大観の《村童観猿翁》(1893)や下村観山の《熊野御前花見》(1894)、第3期生である近代陶芸の開拓者・板谷波山の《元禄美人像》(1984)など、そうそうたる顔ぶれがお出迎え。

板谷波山《元禄美人像》1894(明治27)年//木

板谷波山は陶芸家として大成しましたが、本格的に陶芸に取り組むようになったのは20代半ばごろ。在学中は近代彫刻における写実主義を掲げた高村光雲から彫刻の技を学び、《元禄美人像》ではその技量がいかんなく発揮されています。小袖の花唐草文が浮彫で表現されていて、これは後の波山の陶芸作品にも通じるところがあるなど、すでに大家の片鱗がうかがえます。ある意味で陶芸家・波山の原点の一つといえるでしょう。

菱田春草《寡婦と孤児》1895(明治28)年//絹本着色

筆者が注目したのは、数々の傑作を生みだしながらも36歳という若さで生涯を閉じた天才画家・菱田春草の《寡婦と孤児》(1895)。夫を戦で亡くした女性の表情は悲壮感に満ち、この先に待ち受ける運命を予感させます。

東京美術学校開設当時は、新しい日本画を模索するうえでの課題として、歴史上の出来事やそれを描いた物語を主題にした歴史画が位置付けられていたそう。本作も軍記物『太平記』をもとに描かれたとされていますが、勇壮な戦絵巻ではなくあえて戦に巻き込まれた者の悲劇を題材に選んだことは、日清戦争の最中にあった当時の制作背景が無関係ではないでしょう。

実は、本作はある教授に「化け物絵」だと酷評されたものの、校長であった岡倉天心の采配で主席となり、買上されたという曰く付きの作品。その作品をいま描くことに、どんな意味があるのか、どんな意味をもたせるのかを重視した、東京美術学校の教育方針や理念が垣間見えるエピソードです。

高村光太郎《獅子吼》1902(明治35)年//ブロンズ
左、赤松麟作《夜汽車》1901(明治34)年、キャンバス/油彩 右、小林万吾《農夫晩帰》1898(明治31)年//キャンバス、油彩
金観鎬《夕ぐれ》1916(大正5)年//キャンバス、油彩
上、萬鉄五郎《自画像》1912(明治45)年//キャンバス、油彩 下、李叔同《自画像》1911(明治44)年//キャンバス、油彩

1896年開設の西洋画科で教授を務めた黒田清輝の指導で生まれた「卒業時に自画像を学校に収める」という慣習は、今日の藝大まで断続的に続く伝統となっています。意外にも卒業制作が買上にならなかった萬鉄五郎、青木繁、藤田嗣治といった、卒業後に才能を開花した巨匠たちの学習成果についても自画像で確認することができました。

過去を発掘できる、この世界的にみてもほとんど類例のない伝統が、いまや日本の近現代美術史を通覧するうえで非常に役立つ一大コレクションを形成しているのだなと考えると、あらためて黒田清輝の功績の大きさを感じざるを得ません。

第2部 展示風景

さて、今年で創設70年を迎える藝大の買上制度ですが、現在では多くの科で首席卒業と位置付られているといいます。

第2部「各科が選ぶ買上作品」では、買上制度のある全12科(日本画、油画、彫刻、工芸、デザイン、建築、先端芸術表現、美術教育、文化財保存学、グローバルアートプラクティス、作曲、メディア映像)からそれぞれ数件ずつ、全52件の買上作品について選定意図などを添えて紹介。各科が特に優秀と認めてきた作品の傾向を浮かび上がらせています。

「油画専攻」展示風景
「日本画専攻」展示風景
「彫刻科」展示風景、山口信子《習作》1952(昭和27)年//石膏

各科ごとの展示を見ていると、「日本画専攻」はその時代の空気感や特徴をとくに表す作品をピックアップしていますが、「彫刻科」は買上作品に選ばれた女性作家を時代が古い順に5名選ぶという思い切った選定方法を取っていました。作品の選定や解説は各科の教授が独自の観点で行っているため、個性がでていて面白いです。

「デザイン科」展示風景、岩瀬夏緒里《婆ちゃの金魚》2011-2012(平成23-24)年//アニメーション
「建築科」展示風景、市川創太《なめらかな複眼(=super eye)表記方法による空間概念創出の試み》1995(平成7)年//木製パネル、トレーシングペーパー、ケント紙、インキングコピー、プロッタ出力、BJ出力、模型、テキスト
「美術教育研究室」展示風景、大小田万侑子《藍型染万の葉紋様灯籠絵巻》2018(平成30)年//藍、麻、綿、型染
「グローバルアートプラクティス専攻」展示風景、左がシクステ・パルク・カキンダ《Intimate Moments/Monologue》(一部)2019(令和元)年//映像、ドローイング、インスタレーション

2016年に新設された、藝大で最も新しい専攻である「グローバルアートプラクティス専攻」(GAP)の展示はとくに興味深かったです。文化の既存の枠を超えた領域横断的な現代アートの実践を探究しているGAPには、異なる言語、文化、ジェンダーを背景とする学生が世界中から集まり、中には藝大でありながらアートの分野以外からの入学者もいるとか。

GAPの買上作品からは、近年の藝大における研究領域や表現方法の多様化を感じることができました。たとえば、シクステ・パルク・カキンダによる《Intimate Moments/Monologue》(2019)ドローイングと映像によるインスタレーション作品が挙げられます。

作家のルーツであるコンゴ民主共和国の鉱山で採掘されたウランが米国に渡り、広島・長崎に投下された原子爆弾に使用されたという歴史的事実に向き合い、広島の被爆者へ丁寧なリサーチを実施。鉱山資源の採掘を巡る社会・経済的理由と、その使用による人類・自然への影響についての考察を促す内容の作品として仕上げています。

作家はコメントで、自身を日本とコンゴをつなぐ架け橋のように意識していたものの、広島で行ったドローイングパフォーマンスは日本人たちに気づかれず、「私は見えない橋だった」と失望をのぞかせました。日本人の人種的閉鎖性への気づきがあるという点でも、この作品がGAPの教育の成果として存在し、また買い上げられた意味は大きそうです。

「文化財保存学専攻」展示風景、山崎隆之《教王護国寺蔵重要文化財木造千手観音推定復元像》1967(昭和42)年//檜、漆箔、木彫
「作曲科」展示風景
「メディア映像専攻」展示風景、越田乃梨子《壁・部屋・箱─破れのなかのできごと》2008(平成20)年//映像

第2部の出展作品のうち、筆者がもっとも印象に残ったのは「工芸科」の丸山智巳《千一夜》(1992)でした。

「工芸科」展示風景、丸山智巳《千一夜》1992(平成4)年//銅、鍛金

彫金・鍛金・鋳金・漆芸・陶芸・染織・素材造形(木材・ガラス)の7分野からなる「工芸科」では、素材を通して高度な伝統技術の習得し、さらなる発展をなし得る能力を身に付けることが目指されています。

《千一夜》は山や森を吹き抜ける風を風神と捉え、人体をモチーフとして表現した優れた鍛金技法による作品。まるで水の中を泳いでいるようにも見える、張りのある伸びやかな身体の躍動感や、物語性を秘めた存在感に惹かれました。調べてみると、作家の丸山智巳は現在、藝大の工芸科で鍛金の教授を務めているそうで、近年でも本作と類似点の多い、ボクサーやレスラーをイメージしたたくましくも美しい人物像を制作しています。

解説によれば本作は「鍛金技法と溶接の融合により鍛金作品として表現の可能性を広げた」点が評価の大きな理由になったようです。アーティストとしても教育者としても鍛金作品の表現の可能性を広げ続けている氏の制作姿勢が、学生時代から一貫していたことが伝わる1作でした。

また、「先端芸術表現科」の岡ともみ《岡山市柳町1-8-19》(2017)の体験型インスタレーションも心に残るものでした。

「先端芸術表現科」展示風景、岡ともみ《岡山市柳町1-8-19》2017(平成29)年//ミクストメディア インスタレーション

1999年に新設された「先端芸術表現科」では、特定のメディアの枠組みを超えて多様な手法を用いて造形表現を追求。変化する情報や環境に対応する活動を目指すとともに、社会における芸術の可能性を探っています。

そんな「先端芸術表現科」で首席卒業が認められた岡ともみは、映像と空間設計により、個人の思い出や廃れている風習などをテーマにインスタレーション作品を制作している気鋭作家。《岡山市柳町1-8-19》は、岡山に実在する今は亡き祖母の家やそれにまつわる記憶をテーマにした部屋型インスタレーションです。

実在の家具や小物といったオブジェクトを散りばめた暗い部屋で、映像のプロジェクション、映り込み、照明、数枚のアクリル板を組み合わせることで、虚像と実像の間にレイヤーを重ね、作家の祖母に対する記憶のイメージを立ち上げています。そこには過去と現在、どちらともつかない時間軸の空間が存在していました。映像は約7分ですが、まるで1本の映画を見たような満足感。不気味に明滅する照明や妖しく浮かぶ祖母の写真など、やや演出に和風ホラーの趣きがあり、じっと見ているとまるで意識が異界に取り込まれていくような没入体験ができました。

本展に足を運んだ際はぜひ一度ご覧いただきたい作品です。


会場にはさまざまな時代・さまざまな表現方法のすばらしい作品が並んでいますが、いずれも制作された当時は、作者のほとんどが20代であったという事実は、よく考えるとなかなかすごいことのように感じられます。
のちに巨匠と呼ばれた人もいる一方で、卒業して創作から離れた人もいるかもしれません。それでもすべての作品が、この時点では何者でもなかった学生たちが美大の最高峰である藝大で学んだすべてを注ぎ込んだ集大成、情熱の塊であることは明らかです。

次に表に出てくるのが何年後になるかわからない作品も多いはず。ぜひこの貴重な機会に、藝大による教育の歩みを本展で振り返りながら、年月を経てもなお輝きを失わない作品のパワーを感じてみてはいかがでしょう。

 

「買上展 -藝大コレクション展2023-」開催概要

会期 2023年3月31日(金)~ 5月7日(日)
会場 東京藝術大学大学美術館 本館
開館時間 午前10時 ~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 月曜日(ただし、5月1日(月)は開館)
観覧料 一般 1200円、大学生 500円
※チケットは美術館チケット売り場および美術展ナビアプリにて販売中
※高校生以下及び18歳未満は無料
※障がい者手帳をお持ちの方(介護者1名を含む)は無料
主催 東京藝術大学、読売新聞社
問い合わせ 050-5541-8600(ハローダイヤル)
公式サイト https://museum.geidai.ac.jp/

その他のレポートを見る

【上野の森美術館】台東区障害者作品展「森の中の展覧会」会場レポート。水彩画や切り絵など個性豊かな214作品がそろう

上野の森美術館

 

2023年3月8日~3月12日の期間、上野の森美術館では台東区障害者作品展「森の中の展覧会」が開催されました。

 

「森の中の展覧会」
会場風景
会場風景
会場風景
会場風景、吾妻 瑠華《黒猫ラム》(アクリル絵の具)
会場風景、濵田 理恵《蓮 池のつぼみ》(鉛筆、水彩絵の具)

台東区では、あらゆる人が文化・芸術を楽しめる機会をつくるとともに、文化・芸術活動への参画を支援し、障害への理解促進を図る「障害者アーツ」の取り組みを進めています。

「障害者アーツ」の一環で台東区と上野の森美術館が主催する「森の中の展覧会」は、今回で2回目の開催となりました。

同展開催のきっかけの一つは、台東区が障害者施設にヒアリングを行った際、「普段の施設での活動とは異なることをやりたい」「難しいことに挑戦する機会にしたい」という意見が寄せられたことだったとか。

また、障害のある方のなかには、心理的なハードルがあるために自らの作品をなかなか世に出せない方や、そもそもこれまで創作活動に触れてこなかった方も多くいます。そういった方々が美術館に作品を展示する機会を通して、主体的に芸術に携わる楽しさ、誰かに自分の作品を認めてもらう喜びを知ってもらおうと企画したとのこと。

出展者は台東区に在住、在勤、在学している障害のある方や、区内の障害者施設・団体等を利用している方などで、最終的に214点もの作品が集まりました。障害者施設に美術講師を派遣して開催した美術ワークショップで制作された作品や、区内小中学校の特別支援学級の授業で制作された作品も多く展示されました。

松葉小学校の生徒による、自分の好きな生き物を表現した版画作品。ビーズを貼り付けるなど、額にもこだわりが光っていました。

題材は自由。会場には水彩画や色鉛筆、版画といった絵画を中心に、自由な色使いと発想で生み出された個性的な作品が並んでいました。

みつはし じゅん《折り切り文字「東京」》(折紙・ダンボール)/ 折紙を折る過程も作品に昇華したユニークな作品。白と赤のコントラストが黒の背景に映えて、会場で特に目を引きました。
結ふるキッズ《ムーンウルフ》(折紙・ビニール・ラメ・アルミホイル)/多様な素材で立体感を出しています。月に千代紙が使用されていて、どことなく和の雰囲気も漂っているなど見どころが多い力作。
潤滑《軽作業》(墨)/「仲間と軽作業を楽しくやりたいからこの作品を作った」との作者コメント通り、飾らない字体が爽やかな気持ちにさせてくれます。「潤滑」というペンネームも洒落ていて作品とマッチしている気がします。

作品に添えられたキャプションには、タイトルと作者名(ペンネームも可)、そして短い作者コメントのみ。年齢も、これまでの創作経験も、もちろん障害の程度や種類もわかりません。障害者アートと聞くと「体が不自由なのに上手だ」「目が見えないのにすごい」というふうに、属性に引っ張られたモノの見方をしてしまう方もいるかと思いますが、同展ではアートそのものの魅力と向き合えるような構成になっていました。

 

また、同展は作品をただ展示する場ではありません。出展作品は美術の専門家の目に触れ、特に優秀な作品は台東区長賞、上野の森美術館賞、優秀賞、佳作のいずれかに選ばれ表彰されます。本年度は武蔵野美術大学油絵学科教授・造形学部長の樺山祐和さん、画家の西村冨彌さん、遊馬賢一さん、書道家の蕗野雅宣さんが審査委員となり、10点の作品が選出されました。

【台東区長賞】哘 博考《今日のご飯は何かな?》(色鉛筆)
【上野の森美術館賞】大橋 直樹《象(ゾウ)》(アクリル絵の具)

いくつか講評をお聞きすることができました。

台東区長賞を受賞した哘 博考(さそう ひろたか)さんの《今日のご飯は何かな?》は、「鳥を見た時の感覚の強さが絵に出ている。頭部だけの描写だが、鳥をこう見たこう感じたという思いがストレートに伝わる。緻密に書いていて充実感のある強い絵である」「構図が堂々としている。画面の広さ以上の構図が感動につながっている」とのコメント。

上野の森美術館賞を受賞した大橋 直樹さんの《象》は、「象らしくないようにも見えるが、一見して象とわかる。形や色が明快でストレートな感じがすごく良い」「象の黒色と背景の黄色との明暗が見事」「牙などを上から何回も手をかけているのが分かる。思い切りが良くいさぎよい絵が心を打つ」といったご意見があったようです。

こうしたプロが注目するポイントを知ることで、自分や他人の創作物への見方が変わり、より面白みや新しいアイデアが出てくる気がします。

作品を作ったのなら、誰でも人に見てもらいたい、そして認めてもらいたいという欲求が出てくるもの。同展への出展や受賞をきっかけに創作の楽しさを知った方の中から、もしかすると未来の大物アーティストが誕生するかもしれませんね!

物販のがま口やサコッシュ

最後に、ミュージアムグッズといえばたいてい展覧会会場の外で展開されているものですが、同展では会場内に物販があったことに驚きました。販売されていたのは台東区内の福祉作業所が製作した菓子や布製品、革製品など。

台東区の担当者にお話を聞くと、せっかく良い商品を作っても販路が限られているために知る人ぞ知る商品になっているのが現状であるため、この機会に場を提供し、認知度アップを目指しているとのことでした。


入場無料ということもあり、取材を行った会期初日は大変な賑わいで、校外学習で訪れた学生の団体客もチラホラと見かけました。多くの展覧会では私語が憚られるようなピリッとした空気が漂っているものですが、同展では作品について来場者が思い思いに意見を交わし、写真を撮る方も多くいるなど、とてもほのぼのとした雰囲気。中にはおそらく出展者だと思しき方もいて、自作品について生き生きと解説している姿が非常に印象的でした。

前回の展示作品は141点でしたが、今回は214点に増えるなど、規模が徐々に大きくなっている「森の中の展覧会」。良い意味で統一感のない展示作品を見ていけば、それぞれの心に残る作品が見つかるはずです。第3回は2024年に開催予定ですので、今後もぜひご注目ください。

 

「森の中の展覧会」概要

会期 2023年3月8日 (水) 〜 3月12日 (日)
会場 上野の森美術館
入場料 無料
WEBサイト https://www.city.taito.lg.jp/bunka_kanko/culturekankyo/events/shougaiarts/morinonaka.html

※記事の内容は取材日(2023/3/8)時点のものです。

 


その他のレポートを見る

禅宗文化の精髄を体感する。
【東京国立博物館】特別展「東福寺」(~5/7)内覧会レポート

東京国立博物館

京都を代表する禅寺の一つである東福寺。

新緑や紅葉の名所として知られ、戦火に見舞われながらも古文書や書跡、典籍、肖像画など数多の宝物を守り継いできた名刹である。

東福寺の至宝をまとめて紹介する初の機会となる本展では、絵仏師・明兆による「五百羅漢図」など禅宗文化の優品が集う。

本記事では開催前日に行われた報道内覧会の様子をレポートする。

 

東福寺 三門

新緑や紅葉の名所としても知られる、京都を代表する禅寺の一つ「東福寺」。東福寺の名は奈良の東大寺と興福寺になぞらえて、その一字ずつを取ったことに由来します。

開山となったのは中国で禅を学んだ円爾(えんに)。東福寺は幾度も焼失の危機に遭いながらも、中世の面影を色濃く留める建造物の数々を現代に伝え、その巨大な伽藍は「東福寺の伽藍面(がらんづら)」の通称で知られています。

特別展「東福寺」は草創以来の東福寺の歴史を辿りつつ、大陸との交流を通した禅宗文化の全容を紹介。その意義と魅力を幅広く伝える展覧会です。

禅の神髄が宿る、東福寺の寺宝の数々。

展示会場入口
円爾の師である無準の姿を描いた国宝《無準師範像》(自賛 中国 南宋時代・嘉熙2年(1238) 京都・東福寺蔵 展示期間:3月7日(火)~4月2日(日))
2章展示風景。手前は《蔵山順空坐像》(鎌倉時代 十四世紀 京都・永明院蔵 通期展示)
4章展示風景より。中国仏教界との交流によりもたらされた書画の数々
《虎 一大字》(虎関師錬筆 鎌倉~南北朝時代・14世紀 京都・霊源院蔵 通期展示)

本展の展示会場は第1会場・第2会場に分かれており、

  • 第1章 東福寺の創建と円爾
  • 第2章 聖一派の形成と展開
  • 第3章 伝説の絵仏師・明兆
  • 第4章 禅宗文化と海外交流
  • 第5章 巨大伽藍と仏教彫刻

の全5章構成となっています。

東福寺は南北朝時代には京都五山の第四に列し、本山東福寺とその塔頭(たっちゅう)には中国伝来の文物をはじめ、建造物や彫刻・絵画・書跡など禅宗文化を物語る多くの特色ある文化財が伝えられています。国指定を受けている文化財の数は、本山東福寺・塔頭合わせて国宝7件、重要文化財98件、合計105件。
特に1章・2章では「南宋肖像画の極致」と称される《無準師範像》(国宝)など、円爾とその後継者・聖一派(しょういちは)ゆかりの禅宗美術の優品が並びます。

個人的に印象に残ったのは円爾の孫弟子で、東福寺第15代住職・虎関師錬(1278~1346)の書と伝えられる《虎 大一字》。「虎」の文字をあらわした書か、はたまた座した虎の絵か。まるでこれを見ている人間に「お前は何だと思う?」と問いかけているかのようです。

伝説の絵仏師・明兆の画力

明兆による五百羅漢図の展示風景
本展の注目作《五百羅漢図》(吉山明兆筆 南北朝時代・至徳3年(1386) 京都・東福寺蔵)。こちらは第1号(展示期間:3月7日(火)~3月27日(月))。隣にはユニークな漫画が添えられている
《円爾像》(吉山明兆筆 室町時代・15世紀 京都・東福寺蔵 展示期間:3月7日(火)~4月2日(日))
重要文化財《達磨・蝦蟇鉄拐図》(吉山明兆筆 室町時代・15世紀 京都・東福寺蔵 展示期間:3月7日(火)~4月9日(日))

本展の白眉となるのが、「画聖」とも崇あがめられた絵仏師・明兆による記念碑的大作《五百羅漢図》。現存全幅が修理後初公開となる本作は、水墨と極彩色が見事に調和した若き明兆の代表作で、1幅に10人の羅漢を表わし50幅本として描かれ、東福寺に45幅、東京・根津美術館に2幅が現存しています。本展はその全貌がはじめて明かされる貴重な機会となります(幅によって展示期間が異なります)。
隣には内容をユニークに解説した漫画が添えられており、トーハクならではの遊び心が発揮されているのもポイント。

また、明兆の円熟期の傑作として知られる《達磨・蝦蟇鉄拐図》も展示。シンメトリックな構成美と緻密な陰影描写、江戸絵画を先取りしたような明るく伸びやかな筆さばき・・・。中国絵画の名品を模写したものとされますが、明兆の類まれな画力と独創性を堪能することができる名品です。

巨大伽藍の圧倒的パワーに包まれる

5章へと続く通路には東福寺を代表する観光スポット・通天橋を実物大で再現
巨大伽藍にふさわしい特大の仏像が並ぶ第5章
四天王立像(通期展示)がそろい踏み。右手前の《多聞天立像》は鎌倉前期作で運慶風が強い
《仏手》(鎌倉~南北朝時代・14世紀 京都・東福寺蔵 通期展示)

「東福寺の伽藍面」を実物で体感できるのが第5章。巨大伽藍に相応しい特大サイズの仏像彫刻が立ち並び、そのスケールと荘厳さに圧倒されます。

修復後初公開となる四天王立像の《多聞天立像》や重要文化財の《迦葉(かしょう)・阿難(あなん)立像》をはじめ、手だけで2メートルという巨大さを誇る《仏手》にも注目。消失したという旧本尊の巨大さをしのべる貴重な遺例です。

 

本展の開催期間は5月7日(日)まで。禅宗文化の生彩、そして巨大伽藍の圧倒的パワーをぜひ会場で体感してみてください。

 

開催概要

会期 2023年3月7日(火)~5月7日(日)※会期中展示替えあり
会場 東京国立博物館 平成館(上野公園)
開館時間 9時30分~17時00分(入館は閉館の30分前まで)
休館日 月曜日
※ただし、3月27日(月)と5月1日(月)は開館
観覧料 一般  2,100円
大学生 1,300円
高校生  900円※本展は事前予約不要です。混雑時は⼊場をお待ちいただく可能性があります。
※混雑時は入場をお待ちいただく可能性があります。
※中学生以下、障がい者とその介護者1名は無料。入館の際に学生証、障がい者手帳等をご提示ください。
※本展観覧券で、ご観覧当日に限り総合文化展もご覧いただけます。
(注)詳細は展覧会公式サイトチケット情報のページでご確認ください
展覧会公式サイト https://tofukuji2023.jp/

※記事の内容は取材時のものです。最新の情報と異なる場合がありますので、詳細は展覧会公式サイト等でご確認ください。また、本記事で取り上げた作品がすでに展示終了している可能性もあります。


その他のレポートを見る

2023年4月からリニューアル工事に入る下町風俗資料館、その魅力をあらためて振り返る。
最後の特別展「明治・大正・昭和の子供たち」も紹介

下町風俗資料館

東京・上野の不忍池のほとりに立つ台東区立下町風俗資料館

古き良き東京の下町文化を後世に伝えるべく昭和55年(1980)に開館して以来、多くの来館者を楽しませてきましたが、令和5年4月1月から、施設の大規模リニューアル工事のため令和6年度末(時期未定)までの休館が決定していることをご存じでしょうか。

リニューアル後は現在の展示の一部が見られなくなってしまうということで、期待と同時に寂しさを覚えます。

そこで今回は、約42年にわたり愛された下町風俗資料館の姿をあらためて紹介しようと、館内を取材させていただきました。

最後の特別展「明治・大正・昭和の子供たち ~資料でつづる下町の子供の世界~」についても記事の後半で触れていますので、残り約1か月の営業期間、ぜひ足を運んでみてください。

台東区立下町風俗資料館
館内の様子
特別展「明治・大正・昭和の子供たち ~資料でつづる下町の子供の世界~」展示風景

区民の声から生まれた下町風俗資料館

大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の第二次世界大戦での焼失、昭和39年(1964)の東京オリンピック開催を契機にした再開発などにより、江戸の風情を残していた古き良き下町の街並みや文化は急速に姿を消し、庶民の暮らしは様変わりしていきました。

昭和40年頃になると、そんな状況を憂いた下町文化を愛する人々から声が上がり始め、下町の記憶を次の世代へ伝えるための資料館設立の構想が生まれます。そして昭和55年10月1日、ついに下町風俗資料館が開館しました。

1階展示室では、関東大震災前(約100年前)の大正時代の下町風景として、商家や長屋、井戸端などをほぼ実物大で再現。2階展示室では、台東区を中心とした下町地域の歴史に関する資料や玩具などを紹介しています。

展示の魅力は、鑑賞するだけでなく実際に再現された座敷に上がれたり、展示物に触れられたり(※)と体験型のコンテンツになっている点。同館研究員の本田さんによれば、いわゆるハンズ・オン展示と呼ばれるこの手法は今でこそさまざまなミュージアムで使われていますが、実は下町風俗資料館がパイオニアなのだといいます。

(※コロナ禍のため、一部を除いた展示物は接触禁止となっています)

民間からの要望に応じて開館したという経緯から、収蔵品の多くが台東区内外から集まった寄贈品であることも大きな特徴といえるでしょう。実際に家庭にあった家具や日用品によって、よりリアルな下町の雰囲気を味わえるというわけです。

これまで300万人以上が訪れ、最近ではレトロな雰囲気を求める若者や、観光で訪れた外国人からも密かな人気を集めるスポットになっているそうですよ。

100年前の大正時代にタイムスリップ

自働電話ボックス

1階でまず目に入るのは、六角形の真っ赤な自働電話(のちに公衆電話と改名)ボックス
日本初の自働電話が東京の上野駅と新橋駅に登場したのは明治33年(1900)のこと。同館では、明治43年(1910)から用いられたボックス型の自働電話を復元展示しています。

自働電話ボックスの鮮やかな赤は、下町の街並みのなかで美しく映えていたに違いありません。

自働電話。木製のつくりがかわいいです。

中の電話機本体は実際に使われていた物。送受話器が分割されていて、ダイヤル式ではなく、まず交換手を呼び出して相手の電話につなげてもらうタイプです。

今やダイヤル式どころかプッシュ式の公衆電話すら目にする機会が減っていますが、そのさらに前の時代の骨董品ということで歴史を感じました。喋り口の位置がとても低く、背が高い人は腰をかがめて話さなくてはならないのが大変そう。当時の日本人の平均身長がこれくらいだったのかな、なんてことを想像させる展示です。

商家の店構え

こちらは大通りに面した大店(おおだな)の商家・花緒(※)の製造卸問屋の店先、という設定の再現展示。江戸時代から伝わる伝統的な「出桁造り(だしげたづくり)」や「揚戸(あげど)」といった商家建築が見られます。

(※下町風俗資料館の展示解説の表記にのっとり、鼻緒ではなく花緒としています)

入って左が花緒づくりの作業場、右が帳場兼商談スペース。

作業場の奥には色とりどりの花緒が下がっています。当時は履物といえば下駄や草履が一般的で、花緒は生活の必需品でした。季節や着物に合わせて、そのときどきの材質や形・柄の流行によって挿げ替えてオシャレを楽しんでいたのだとか。

珍しい展示品でいうと、作業場の上部に吊るされた「用心籠」があります。今でいう非常持ち出し袋のような存在なのだとか。

用心籠

「昔の江戸界隈は水害が多かったため、濡れてしまうのを避けようと、用心籠を設置して大切なものを全部投げ入れたり、いざというときは紐を外して外に持ち出したりしたようです」(本田さん)

一通りの展示品については解説シートが配布されていますが、用心籠のように、現代を生きる私たちにとって見慣れないモノも多いはず。まずは「あれは何に使う道具だろう」と予想しながら館内を回ってみるのも面白いかもしれません。

帳場兼商談スペース

こちらは帳場兼商談スペース。商家には必ず帳場(出納の書付けや勘定をする場所)があったそうで、帳場格子を結界として、その中には主人や番頭などの選ばれた人しか入ることが許されなかったとか。もちろん再現展示では自由に入ってOK 。そろばんや当時の金庫である「銭箱」、印鑑を入れる「印箱」などが置かれていました。

気軽に番頭気分を味わえます。

「こうした再現展示について、開館にあたり当時の館長や職員が泊まり込んで、どこにどんなモノがあれば便利か、実際に体験して配置を決めていったという資料が残っています。また、当時の人たちは右利き(左利きの人は矯正されることが当たり前の時代でした)ですから、右手でモノがつかめるような配置になっているなど、細かいこだわりがあります」(本田さん)

本田さんのお話からは、資料館の役割として、展示の見栄えよりも、あくまで当時のリアルの暮らしを伝えることに心を砕いていたことが伝わってきます。

商家の前には、浅草で発明され、自動車の普及以前に送迎手段の代表格だった人力車や、配達を行う商いには欠かせなかった箱車(はこぐるま)も置かれ、活気ある下町の雰囲気を演出していました。

人力車。提灯飾りには「赤岩」という屋号が見えます。

下町人情の温かさを育んだ長屋の暮らし

商家の向かい側には、狭い路地に囲まれた、時代劇でおなじみの集合住宅である長屋の再現展示があります。

長屋の路地の風景を再現。

取材したのは「初午(はつうま)」(2月最初の午の日)の時期でした。毎年初午には全国の稲荷社で五穀豊穣を祈る「初午祭」が催されています。同館にも小さな稲荷社が存在するため、江戸時代から初午祭に合わせて街で掲げられていた「地口行灯(じぐちあんどん)」が長屋に飾られていました。

地口行灯は今でも職人が作っています。

地口は、江戸時代に流行ったことわざや格言などをもじった駄洒落の言葉遊びのこと。地口に戯画をつけて行灯に仕立てたものが地口行灯で、初午祭に集まった人々を楽しませていたようです。

このように、同館は正月飾りや七夕飾りといった、季節の移ろいに合わせたこまやかな演出で来館者を迎えてきました。飾りは特別な日の楽しみでもあり、ゲンを担ぎ、神仏に祈りを捧げる手段の場合もあります。当時の人々の精神性や下町の四季の情景を体感できる粋な工夫ですね。

ちなみに、コロナ禍で展示物が接触禁止になる前は、密かにタンスの中の衣替えなど、気づいた人だけが楽しめる小ネタも仕込んでいたそう。

年老いた母と子が営む駄菓子屋。奥には居間が見えます。

関東大震災前まで数多く見られた平屋造りの長屋には、駄菓子屋銅壺屋(どうこや)が再現されています。

ベーゴマやおはじきなどのおもちゃなども取り扱っていた駄菓子屋は、子供たちの社交場でした。住居の一画で営業しているという設定で、台所や座敷も作り込まれています。

駄菓子売り場の向かい側にある台所。

なお、当時の下町のインフラですが、電気は通っているものの電化製品は普及しておらず、また水道やガスも一般的でなかったそう。そういった事情は、住人共有の井戸からくんだ水をためる水瓶が台所にあったことからも伝わってきます。

水瓶の下には木製の流しが見えますが、このように床の近くに流しを作り、しゃがんで炊事をする作業場を「座り流し」と呼びます。これも震災前の大正時代頃には一般的なものだったというから驚きました。今では考えられない配置ですね。

長屋の天井付近には、煙出しや明かり取りのための引き窓があります。
銅壺屋。左が居住スペース、右が作業場。

銅壺屋は湯沸かし器(銅壺)をはじめ、鍋ややかんなどの銅製品を作ったり、修理したりするお店のこと。下町にはさまざまな職人が暮らしていましたが、銅壺屋の職人はモノを修理しながら大切に使っていた時代の暮らしには欠かせない存在でした。

作業場の壁には神棚の一種で、火の神様を祀った「荒神棚(こうじんだな)」が作られています。

「銅壺屋は火を使う職業ですが、当時は電話一本で消防車を呼べるわけではないので、今よりずっと火事への恐れは強かったんだと思います。火事が起こらないようにお守りくださいと。信心深い方が非常に多かった時代だということがお伝えできればと考えています」(本田さん)

荒神棚

思い返せば、先ほどの駄菓子屋でも神棚を発見しました。昔はどの家庭、どの商家にも神棚が祀ってあったそうで、神仏への祈りは生活に密着した切実なものだったのでしょう。

信心深さを表す展示としては、長屋の奥に建てられた稲荷社も挙げられます。

長屋の奥に祀られた、小さな稲荷社。

稲荷は、江戸時代には土地や屋敷の守り神として盛んに祀られていて、長屋にはそれぞれ必ず建てられたとのこと。そのため、下町地域には現在も多くの稲荷社が名残として存在しています。

薄壁一枚で仕切られた住居。長屋は、現代を生きる私たちからすると、マンションやアパートなどとは比較にならないほどプライバシーの観念が薄い生活空間です。住人同士は必然的に気安い付き合いになるでしょうし、他人へ迷惑をかけないようにする心配りも今以上に必要だったのではないでしょうか。
下町の人々の人情の厚さは、こういう暮らしから形成されたのかもしれません。

長屋の脇には井戸も再現。井戸端は長屋の主婦たちの社交場でした。下町の井戸は湧水ではなく、「木樋(もくひ)」という水道管から水を引いていたそうです。

1階展示室の商家と長屋は、昭和55年の開館に合わせて建てられているため、築40年以上が経過しています。開館当初は真新しかっただろう床も柱も、長年毎日のように人が出入りした結果、本当に人が住んでいたかのように傷がつき、味わい深い風合いになっていたのが印象的でした。

みんなの憧れ?銭湯の番台に座って記念撮影も

昭和30年代の人々の暮らし

2階には常設展示として、昭和30年代の人々の暮らしが再現されています。下町のアパートの台所兼居間とのこと。真空管を使用した東芝製の白黒テレビをはじめ、日本初の自動式電気釜など当時の高級家電がいくつも揃っているため、裕福なお宅のイメージでしょうか。

戦前から引き継がれたであろうちゃぶ台やタンスなどの調度品と、最新家電が同居する光景から察せられるのは、使えるモノは長く使い続けようとする慎ましさと、便利さや快適さを求めたい気持ち。こうした生活も昭和40年代以降に少しずつ失われ、大量消費の時代になっていきました。懐かしさの裏で、同館設立のきっかけになった、下町文化の保存を考えた人々の危機感も理解できるのではないでしょうか。

かつては下町の風景に欠かせない存在だった銭湯。

その隣には、台東区で昭和25年(1950)~昭和61年(1986)まで営業していた銭湯「金魚湯」で実際に使用されていた番台がほぼそのままの形で置かれていました。同館最大の寄贈品であり、実際に番台に座れるということで、同館で最も人気のあるフォトスポットなのだといいます。

「特に大正~昭和世代の男性は昔からの憧れがあるのか、本当に楽しそうに番台を体験されていて、よっぽど座りたかったんだなあと。今の銭湯は番台ではなく受付が主流なので、お子さんたちの多くは番台と聞いてもわからないようですが、展示を見て『番台ってこういうのなんだ』『いいね』と言ってくれて。親御さんやおじいさんおばあさんが説明してあげるといった光景もよく見かけますし……。この番台に限らず、展示は来館者の皆さんの会話が生まれるきっかけになっているようです」(本田さん)

解説文ではなく、学芸員でもなく、一般人が展示物についてスラスラと説明する。そんな光景と出会えるのも同館の魅力といえそうです。

特別展「明治・大正・昭和の子供たち」が開催中(~令和5年3月31日まで)

特別展「明治・大正・昭和の子供たち」展示風景

2階展示室では、ご紹介した昭和アパートの再現展示や銭湯の番台のほか、通常は台東区を中心とした下町地域ゆかりの品々や、年中行事に関連する資料の展示などを行っていますが、この日はリニューアル前の最後の特別展「明治・大正・昭和の子供たち ~資料でつづる下町の子供の世界~」が開催中でした。(観覧料は入館料に含まれます)

同展は、明治~昭和時代に生きた下町の子供たちの日常に焦点をあて、当時の遊びや子供が成長する過程で通過していった儀式などについて、同館所蔵の資料を中心に紹介するもの。

街頭紙芝居の自転車。舞台の下の引き出しにお菓子を用意し、紙芝居を見に来た子供たちに売って商売していたそうです。
コロナ禍で休止を余儀なくされていた、大人気の昔の玩具体験コーナーも規模を縮小して復活。

特に子供の遊びにまつわる資料が非常に充実していて、おおまかにベーゴマやメンコなどの「外の遊び」と、おはじきやごっこ遊びなど「家の遊び」に分けて展示されていました。

子供たちが東西に分かれて相撲をとっている様子を描いた明治時代の錦絵。
左上の巨大なおはじきのような玩具は、ガラスのけり石(昭和時代)。文字通り石けりに使われたそうですが、その耐久性が気になるところです。
戦争期のベーゴマは物資不足から焼き物になっているなど、玩具から時代背景もうかがえます。
昭和20~30年頃のメンコ。絵柄は当時の有名なスポーツ選手や映画スターなどがモデルに。

本田さんのイチオシは、明治から大正時代にかけて発売されていたミニチュア勝手道具。木、竹、ブリキ、陶器など、本物と全く同じ素材で作られているという本格仕様がポイントです。その精巧さに大人でもワクワクしてしまいました。

ミニチュア勝手道具。子供たちはこういった玩具で家事を学んでいきました。
大人のマネをしたい女の子心をくすぐっただろう、昭和30年代の玩具の時計やアクセサリー。いま見ても非常にかわいいです。
昭和初期頃の雑誌の付録。保存状態がいい展示物が多く、持主にとってどれだけ大切なモノだったのか、寄贈されるまでの背景に思いを馳せました。

七五三やお食い初めなど、子供の成長の儀式にまつわる資料の展示の中で、本田さんが特に注目してほしいと話すのは「背紋帖(せもんちょう)」です。

子供の成長に関する儀式の展示
背紋帖の展示

背紋帖は、0歳から2歳くらいまでの子供が着る一つ身の産着の背中に色糸で縫い付けた、「背守り」の見本帖のことです。

一般的な着物には背中の中央に縫い目があり、その縫い目を「目」と捉え、背中からくる災いから身を守る効果があると考えられてきました。しかし、一つ身の産着には背中に縫い目がないため、背守りと呼ばれた「目」を色糸で刺繍して厄除けにしたそうです。展示されているのは昭和時代の背紋帖で、背守りの図柄の一つひとつに意味が込められていたとか。

「このように、子供の成長に関わる儀式の展示から、さまざまな手を尽くして子供たちを守ろうとしてきた親心が伝わればうれしいです」(本田さん)

下町風俗資料館の歴史を振り返る資料がズラリ

なお、特別展の同時開催企画として、同館42年間の歴史を振り返るため、これまで開催された企画展や特別展のポスターやチラシ、今では手に入らないミュージアムグッズなども紹介されていました。

リニューアル後の下町風俗資料館はどうなる?

気になるリニューアル後の下町風俗資料館について、本田さんに伺ってみました。

「まだ詳細を詰めているところですが、現在の展示の補修や改修などではなく、新しい時代に向けてガラリと印象を変える予定ではあります。リニューアル後は3階の一部も展示室として開放する予定(現在は2階までの展示)なので、まったく違った景色をお見せできるかなと。ただ、これまで通り“下町文化を後世に残す”という使命をもった施設であることに変わりはありませんので、その点はご安心ください」(本田さん)


下町風俗資料館がある上野駅周辺には、学術的価値が高い近現代の美術品を鑑賞できる施設が多くあります。そのなかで、かつて下町に暮らしていた人々の気配を身近に感じられる展示を42年間にわたり実直に続けてきた同館の存在は、地域の住人だけでなく、現代に生きる人々にとって、より特別な地位を占めていくように感じます。

下町文化を後世に伝えるだけではなく、その文化をリアルで体験した世代と知らない世代をつなぐ架け橋となっている下町風俗資料館が、新生のための準備に入るのは令和5年4月1日から。同館に行ったことがある方もない方も、リニューアル工事前にぜひ一度、その姿を記憶に留めるべく足を運んでみてください。

下町風俗資料館 概要

所在地 台東区上野公園2-1
JR上野駅 不忍口から徒歩5分
開館時間 午前9時30分~午後4時30分 (入館は午後4時まで)
休館日 月曜日(祝休日と重なる場合は翌平日)、12月29日~1月3日、特別整理期間等
入館料 一般 300円(200円)、小・中・高校生 100円(50円)

※( )内は、20人以上の団体料金
※障害者手帳、療育手帳、精神障害者福祉手帳、特定疾患医療受給者証をお持ちの方とその介護者の方は無料。
※毎週土曜日は台東区在住・在学の小、中学生とその引率者の入館料無料。

電話番号 03-3823-7451
公式サイト https://www.taitocity.net/zaidan/shitamachi/

※記事の内容は取材日(2023/2/3)時点のものです。最新の情報は公式サイト等でご確認ください。


その他のレポートを見る