【書道博物館】書聖・王羲之の最高傑作「蘭亭序」を見比べて味わう企画展が開催中(~2023年4月23日まで)

台東区立書道博物館

約1700年前の中国で活躍し、のちに「書聖」とまで崇められた伝説的な書家・王羲之おうぎし(303~361、異説あり)と、彼のもっとも有名な作品である蘭亭序らんていじょに焦点を当てた展覧会『王羲之と蘭亭序』が、台東区立書道博物館で開催中です。

会期:2023年1月31日(火)~4月23日(日)
 ※期間中、下記の日程で展示替えが行われます。
前期:1月31日(火)~3月12日(日)、後期:3月14日(火)~4月23日(日)
※出展作品リストはこちら

※同展は東京国立博物館との連携企画です。
※掲載している画像は特別な許可を得て撮影したものです。

 

書道博物館入口
展示風景
《神龍本蘭亭序―山本竟山旧蔵―》王羲之/原跡:東晋時代・永和9年(353)/台東区立書道博物館/前期展示

もっとも有名な書家なのに真跡が一つもない?書聖・王羲之とは

中国の歴史上、書がもっとも盛行したのは、風雅な貴族社会が形成された4世紀の東晋時代。日常のあらゆる場面で瀟洒を極めようとした貴族たちが、実用一色だった書にもこぞって芸術性や批評性をもたせるようになったころに登場したのが王羲之です。

王羲之は当時過渡期の書体だった草書・行書・楷書を洗練させ、自らの感情を書の表現に落とし込みながら芸術性を飛躍させました。彼が獲得した普遍的な美しさを備えた先進的な新様式の書法は、奈良時代に王羲之の書が伝わった日本においても書法規範の源泉となり、今日に至るまで能書の代名詞的存在となっています。

「蘭亭序」(353)は、そんな王羲之の代表作であり、歴史に燦然と輝く名作。永和9年(353)3月、風光明媚な会稽(浙江省紹興市)山麗の蘭亭という土地で、王羲之が名士41名を招いて催した雅宴で詠まれた、詩集の序文の草稿です。

《蘭亭図巻―万暦本―》王羲之 他/明時代・万暦20年(1592)/五島美術館(宇野雪村コレクション)/前期展示 の拡大写真。蘭亭の宴の様子を描いています。

宴の楽しさや生命の儚さについて心のままにつづった情緒豊かな名文が、秀麗な行書で記された「蘭亭序」は王羲之が酒に酔ったまま即興で仕上げた草稿。何度清書しようとも結局、草稿以上の出来にはならなかったという逸話が残る、本人も認めた最高傑作です。現在でも行書を学ぼうとしている人々の必修作品として扱われているとか。

そんな「蘭亭序」をはじめとする王羲之の書は生前から高く評価され、貴族たちの間で収集の対象になっていましたが、実は真跡が一つも現存していないそう。

戦乱や天災などで徐々に失われていったほか、王羲之の死後から300年経って、彼の書をこよなく愛した唐の太宗たいそう皇帝(598-649)が徹底的に手元に集め、崩御の際に「蘭亭序」も一緒に埋葬してしまったのが大きな理由です。しかし、太宗皇帝は優れた書家たちに「蘭亭序」などの作品の模本や拓本などの「写し」を作らせて臣下に下賜しており、王羲之の先進的な書法は後世に受け継が継がれることになりました。

企画展『王羲之と蘭亭序』は、東京国立博物館・書道博物館の連携企画20周年を記念して企画されたもので、「蘭亭序」をはじめとする王羲之の書や、王羲之書法の後世への影響などを示す書画を両館で展示しています。

「蘭亭序」が次々登場。王羲之の神髄に迫るのはどれ?

展示の大きな特徴は、前後期あわせて10種類以上の「蘭亭序」の見比べができること。

「蘭亭序」は複製にさらに複製が重ねられてきました。そのため文字の強弱や緩急などがどれも微妙に異なる、複製に関わった人の技量や、王羲之へ抱いたイメージが反映されたさまざまな来歴の「蘭亭序」が伝わっているのでした。

前期展示で鑑賞できたのは《定武本蘭亭序―韓珠船本かんじゅせんぼん―》《神龍本蘭亭序―山本竟山やまもときょうざん旧蔵―》《潁井えいしょう本蘭亭序―王文治おうぶんち旧蔵―》《宣和内府せんなないふ旧蔵蘭亭序》など。ちなみに作品名の「〇〇本」などの語句は、拓本の元となる石が見つかった土地や作品ならではの特徴など、他の「蘭亭序」との区別のためにつけてあるものです。

《定武本蘭亭序―韓珠船本―》王羲之/原跡:東晋時代・永和9年(353)/台東区立書道博物館/前期展示
《定武本蘭亭序―韓珠船本―》王羲之/原跡:東晋時代・永和9年(353)/台東区立書道博物館/前期展示

《定武本蘭亭序―韓珠船本―》は、沈み込むような字粒で全体的にクールな趣き。太宗皇帝の命令で臣下たちが「蘭亭序」を臨書した際、もっとも優れていたのが「初唐の三大家」に数えられる欧陽詢おうようじゅん(557-641)という人物のもので、それを石に刻ませたのが「定武本」の元となったと伝わっています。同作は、数多い「定武本」系統の中でも特に古い宋時代の拓本とのこと。

次に目に留まったのは《神龍本蘭亭序―山本竟山旧蔵―》。「神龍本」とは、冒頭と末尾に唐時代の元号である「神龍」の半印が押してあることにちなんだものです。「神龍本」は他と比べて生き生きした華やかな字姿が楽しめるのが特徴で、その見やすさと学びやすさから、よく教科書などに取り上げられています。

《神龍本蘭亭序―山本竟山旧蔵―》王羲之/原跡:東晋時代・永和9年(353)/台東区立書道博物館/前期展示

しかし、同館の主任研究員である中村さんによれば、「神龍本」の字姿には唐時代の洗練された美意識が少なからず反映されているそうで、「王羲之(東晋時代)の書であればもう少し素朴さがあるはず」とのこと。たしかに同作を他と比べて見ると、ハネやハライが少し大げさに感じられました。

同じ系統でもかなり字姿が異なっていて見ごたえがあります。複製した人が無意識に自分の色を出してしまったのか、その時代の人にウケるように意図的に変えたのか、さまざまな背景がありそう。これも、「蘭亭序」の真跡が残っていない、答え合わせができないからこそ生まれた個性なのでしょう。

同展には「蘭亭序」以外にも王羲之の書(複製ですが)がいくつか出展されているので、書に詳しくない方でも「どの蘭亭序が王羲之の面影を残しているんだろう」と検討をつけながら楽しめます。

また、当たり前ですが「蘭亭序」は単体で鑑賞しても学びがあります。たとえば「蘭亭序」には「之」という漢字が頻出しているのですが、それぞれ独特な形と用筆で書かれていることに驚きました。

筆者はあまり書について詳しくないので、書が上手な人というのは、自分の中に文字の最良の字形というものが完成していて、いつでもその字形をブレなく出力している、となんとなく想像していました。しかし、「蘭亭序」で「之」は文脈に応じて異なる形で書き分けられています。展示室にあった「蘭亭序」の日本語訳文を読みながら鑑賞すると、情景のみならず作者の感情も伝えるような豊かな表現力が本作の魅力であることに気づきます。書道芸術の基本をつくった王羲之の偉大さの一端が理解できるような気がしました。

《十七帖―欠十七行本―》王羲之/原跡:東晋時代・4世紀/台東区立書道博物館/前期展示

「蘭亭序」のほか、王羲之が草書で書いた書簡や手紙29帖を集めた「十七帖」も前後期で複数展示されています。

「一見では地味な作品です。書かれている内容は体調不良を伝えるものなのですが、体調不良と言いつつ美しい字である点はさすが王羲之という感じですね。一文字一文字を切り取って鑑賞してもいいですが、字と字の間合いや大きさも見どころです。ドラマに主役と脇役がいるように、書にも映える文字そうでない文字があって、左右にハライをもつなど、華やかに見せられる字が強調されています。そうして完成した書全体の調和にもぜひ注目してください」(中村さん)

王羲之フォントで作品制作?王羲之人気は日本へも…

同展では王羲之が登場する以前・同時代・以後の時代の書の姿も展示。以後の作品では、王羲之の影響がどれほど大きいものであったのかを見ていけます。

《薦季直表(真賞斎帖―火後本―)》鍾繇/原跡:後漢~魏時代・2~3世紀/台東区立書道博物館/全期間展示

王羲之が尊敬していたという、後漢末期から三国志の魏にかけて活躍した楷書の名手・鍾繇しょうよう(151-230)の薦季直表せんきちょくひょう真賞斎帖しんしょうさいじょう―火後本―)》は、「長い年月をかけて隷書から楷書へと発達を始める第一歩の書」だと話す中村さん。隷書の名残があり、やや背が低く横に広い原始的な字姿が見られます。

《黄庭経》王羲之/原跡:東晋時代・永和12年(356)/台東区立書道博物館/全期間展示

同展には王羲之の黄庭経こうていきょうや《孝女曹娥碑こうじょそうがひ(原跡:東晋時代・升平2年(358)/全期間展示)といった楷書の作品も展示されています。鍾繇の書と見比べると歴然と洗練されていて、背は伸び、人間が筆で文字を書くという動作に寄り添った自然な字姿や用筆をしているように感じました。こちらもぜひ実際に見比べてみてほしいです。

《道行般若経巻第六・第七》西晋時代・永嘉2年(308)/台東区立書道博物館/前期展示
《道行般若経巻第六・第七》西晋時代・永嘉2年(308)/台東区立書道博物館/前期展示

王羲之とほぼ同時代の作品としては《道行般若経巻第六・第七》があり、なんとこちらは肉筆! 唐時代以前の肉筆は大変貴重なのだとか。王羲之が生きた時代の、本当の書の姿を確認できます。

《晋祠銘》唐太宗/唐時代・貞観20年(646)/台東区立書道博物館/前期展示

王羲之神話の立役者である唐の太宗皇帝の行書晋祠銘しんしめいもありました。いかにも皇帝といった、どっしりと堂々たる書きぶりが心地いいです。

「行書や草書は、スピード感を出すために線をつなげて書けば、それっぽくなると素人は思いがちですが、太宗皇帝の書はわざと切っています。そうすることで字の中に空気を取り込み、余裕を出しているんですね。余裕を出しすぎると、だらんとした字になりますが、たとえば『月』という字だったら1画目と2画目の向かい合う線をグッと引き締めています。そのバランス感覚を味わっていただければと思います」(中村さん)

《集王聖教序》王羲之/唐時代・咸亨3年(672)/台東区立書道博物館/前期展示

唐時代以降の王羲之人気を示すものとしては、集王聖教序しゅうおうしょうぎょうじょ《興福寺断碑》(王羲之/唐時代・開元9年(721))が面白いです。あたかも王羲之が書いたかのように、王羲之の書から一文字一文字集めて文章に仕立てた石碑から作った拓本とのこと。《集王聖教序》は線の太さがまちまちでいかにもコラージュした雰囲気ですが、《興福寺断碑》はかなり巧みに全体の調和をとっていました。

《淳化閣帖―夾雪本―》王著編/北宋時代・淳化3年(992)/台東区立書道博物館/前期展示

宋時代に作られて流行した歴代中国の書道全集である淳化閣帖じゅんかかくじょう夾雪きょうせつ本―》にも、当然のように王羲之の書が入っていました。話を聞くと、全10巻あるうち、王羲之が6~8巻、息子の王献之が9~10巻で紹介されているそうで、中国の書の歴史の半分は王親子が担っていたことがわかります。ここまで来ると影響力のあまりの大きさに笑ってしまいました。

展示の最後は、王羲之が日本でどのように受け止められたのかを紹介していました。平安時代では遣唐使らが持ち帰った王羲之の写しで学んだ空海や小野道風たちが台頭し、彼らの活躍の後に国風文化や和様と呼ばれる日本風の書が成立。江戸時代には唐様書の流行から王羲之尊重の風潮が強まったり、幕末には王羲之書法の法帖(拓本を書の形に仕立てたもの)も多く日本に届くようになったり……。中国だけでなく、日本の書の歴史でも常に圧倒的な存在感を示していたようです。

《蘭亭序額》中林梧竹/明治25年(1892)/台東区立書道博物館/全期間展示

日本の作品のなかでは、明治時代の大家・中林梧竹(1827~1913)の《蘭亭序額》が目を引きました。「蘭亭序」の文章を自分なりの書きぶりで仕上げた作品で、字線の変化の豊かさはそうそうお目にかかれるものではありません。


これまでは書聖・王羲之の書を見て「確かにきれいだけど、なんだか普通だなぁ」と注目すべき点がわからずにいました。しかし同展を巡ってみて、その「普通だな」と感じること自体、1700年経っても変わらず人々が王羲之のフォロワーであり続けている証明なのかもしれないな、とその偉大さを感じるようになりました。

書道博物館創設者・中村不折が描いた「蘭亭序」の新聞挿絵。《書聖王羲之 蘭亭記ヲ書ス(十二支帖)》大正元年(1912)/台東区立書道博物館/全期間展示

なお、同展には「世説新書」という、中国でもっとも美しい楷書が書かれた唐時代に作られた、王羲之が生きた時代の噂話を集めた書物に関連した作品3点が期間限定で登場します。いずれも肉筆で書かれた国宝です。

1月31日~3月12日には《世説新書巻第六残巻―規箴―》(唐時代・7世紀)
2月28日~3月26日には《世説新書巻第六残巻―規箴・ 捷悟―》(唐時代・7世紀)
3月28日~4月23日には《世説新書巻第六残巻―豪爽―》(唐時代・7世紀)
貴重な機会となりますのでお見逃しなく。

連携展示をしている東京国立博物館は徒歩圏内ですので、ぜひ両館合わせて足を運んでみてください。

 

■企画展『王羲之と蘭亭序』概要

会期 2023年1月31日(火)~4月23日(日)
※期間中、下記の日程で展示替えが行われます。
前期:1月31日(火)~3月12日(日)、後期:3月14日(火)~4月23日(日)
会場 台東区立書道博物館
開館時間 午前9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日 月曜日(祝休日と重なる場合は翌平日)、特別整理期間等
入館料 一般500円 小、中、高校生250円

※障害者手帳、療育手帳、精神障害者福祉手帳、特定疾患医療受給者証をお持ちの方とその介護者の方は無料です。
※毎週土曜日は、台東区内在住・在学の小・中学生とその引率者の方は無料です。
その他、詳しくは公式サイトをご確認ください。

台東区立書道博物館公式サイト https://www.taitocity.net/zaidan/shodou/
出展作品リスト https://www.taitocity.net/zaidan/shodou/wp-content/uploads/sites/7/2023/02/kikakuten_20230131.pdf

その他のレポートを見る

【会場レポ】「エゴン・シーレ展」が開幕。人間の内面を鮮烈に描いた夭折の天才、約30年ぶりの回顧展

東京都美術館

 

世紀末ウィーンを代表する最も重要な画家の一人、エゴン・シーレ(1890-1918)の大規模展「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」が2023年1月26日、東京・上野の東京都美術館で開幕しました。

展示風景、会場入口
展示風景
エゴン・シーレ《悲しみの女》1912年、油彩、レオポルド美術館蔵
エゴン・シーレ《吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)》1912年、油彩、レオポルド美術館蔵
エゴン・シーレ《闘士》1913年、水彩、個人蔵
展示風景
展示風景

東京では約30年ぶりとなる、夭折の天才エゴン・シーレの回顧展

19世紀末から20世紀初頭、歴史上まれにみる芸術の爛熟期を迎えたウィーンにおいて華々しく活躍し、10年余りの短い画業にもかかわらず美術史にその名が燦然と輝く画家、エゴン・シーレ

幼少期から絵のセンスの片鱗をみせていたシーレは1906年、難関のウィーン美術アカデミーに学年最年少である16歳で特別入学。翌年に、同じく世紀末ウィーン美術を代表する画家であるグスタフ・クリムト(1862-1918)に見出され、大きな影響を受けます。

1909年にはアカデミーの保守的な体制に反発して自主退学し、友人らと「新芸術家集団」を結成。革新的な作品を世に送り続け、1918年には第49回ウィーン分離派展で成功を収めますが、同年、28歳でスペイン風邪に侵され病死しました。

当時の常識にとらわれないスキャンダラスな創作活動が批判を浴び逮捕、猥雑だと判断された作品が焼却処分されるなど、その生涯には失望や苦悩がつきまとったものの、圧倒的な表現力で人間の精神性、生と死、性を生々しく描き出したシーレの作品は、今も人々を惹きつけて止みません。

展示風景、自身のアトリエでポーズをとる20歳のエゴン・シーレ

「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」は、シーレ作品の世界有数のコレクションをもち、「エゴン・シーレの殿堂」として知られるウィーンのレオポルド美術館の所蔵作品を中心に、シーレの油彩画、ドローイングなど合わせて50点を通して、シーレの生涯と作品を振り返る回顧展。

クリムト、モーザー、ココシュカなど、同時代の画家たちの作品65点もあわせて紹介されています。

コレクションは年代順、全14章のテーマごとに展示されていました。

人間の内面の探求を続けたシーレの代表作《ほおずきの実のある自画像》が来日!

出展作品をいくつかご紹介します。

本展の目玉は、シーレが22歳のときに制作した《ほおずきの実のある自画像》(1912)。シーレの自画像で最もよく知られた代名詞的作品です。

エゴン・シーレ《ほおずきの実のある自画像》1912年、油彩、レオポルド美術館蔵

ほおずきの蔓と人物の斜めの姿勢が織りなす構図が生み出す、引き絞るような緊張感。背景の白、服、髪、目の黒、ほおずきの赤の対比が凛とした美しさを構成する一方で、青ざめた顔には赤や緑といった色彩も大胆に配され、それが奇妙にいきいきと映ります。

鑑賞者へ向ける眼差しは挑発か拒絶か。つぐんだ口元は気取っているようにも、言葉を飲み込んでいるようにも感じられ、明確なナルシシズムと不安定な感情のゆらぎをナイーブな感受性で見事に表現しています。

1910年頃、シーレは師であるクリムトの影響から脱却し、不安定なフォルムや表情豊かな線描、鮮烈な色彩などを特徴とする表現主義的な無二の画風を確立していました。本作はその画風が円熟期を迎えた頃の名品です。

よく見ると、本作の画面の切り取り方とポーズは、現代の“自撮り” 文化でよく目にするものだと気づきます。

レオポルト美術館の館長によると、レオポルト美術館へシーレ作品を鑑賞しに来る若者が増えているとのこと。自撮りで自己表現を行う彼らにとって、人間のアイデンティティやセクシュアリティ、精神性といった「自我」に関する思索を、肉体と精神をさらけ出しながら視覚的に実践していったシーレによる自画像から受けるインスピレーションは鮮烈なものなのかもしれません。そういった意味で、シーレは極めて現代性をもつ画家と言えそうです。

なお、《ほおずきの実のある自画像》と、本展には出展されていませんが、シーレの当時の恋人でありミューズであった女性をモデルにした《ヴァリーの肖像》(1912)が対となるよう制作されているため、ご存じない方はぜひ調べてみてください。

エゴン・シーレ《自分を見つめる人II(死と男)》、1911年、油彩、レオポルド美術館蔵

きょうだいの死産や早世が度重なり、14歳のときに敬愛する父が亡くなるなど、シーレにとって死は幼い頃から身近なものだった影響もあるのか、シーレは「全ては生きながらに死んでいる」という死生観をもっていました。「死」はシーレの画業において重要なテーマであり、不穏な死の気配が取り入れられた作品も多いです。

《自分を見つめる人II(死と男)》(1911)は、そんなシーレがまさに「死」を正面から表現した作品。シーレの自画像はしばしば2人の人物として描かれている場合があり、本作も瞑想にふけるように目を閉じた画家本人を、死神や幽霊のような風貌の存在が囲い込むように立っています。近づく死の運命に焦っているようにも、運命をすでに受け入れているかのようにも感じますが、下から伸びる第三者の手が不気味な印象を強めています。

展示解説によると、本作は分裂のイメージを用いた自己内省を試みているとのこと。《ほおずきの実のある自画像》からもわかるように、シーレの自画像はほとんど背景が描かれていません。クリムト的な装飾的画風の逆をいく、ひたすら内へ内へ、徹底した自己探求や自己内省にシーレの関心が向かっていることをうかがわせます。

エゴン・シーレ《母と子》1912年、油彩、レオポルド美術館蔵
エゴン・シーレ《母と二人の子ども Ⅱ》1915年、油彩、レオポルド美術館蔵

また、シーレは「母と子」というモチーフも繰り返し用いています。一般的には愛や平和をイメージする母子像ですが、シーレの《母と子》(1912)、《母と二人の子ども Ⅱ》(1915)はいずれも愛や平和というより、こちらも死や恐怖、悲しみ、失意といった不穏さを強調。表情づけの巧みさだけでなく、激しい筆致と陰鬱な色彩に、一歩引いてしまうようなヒリつく凄みを感じました。伝統的な母子像のイメージを打ち破るシーレらしい展開といえるでしょう。

エゴン・シーレ《赤い靴下留めをして横たわる女》1913年、鉛筆、グワッシュ、レオポルド美術館蔵

そのほか、見逃せないのがシーレの類まれなデッサン力と線の表現力を堪能できる裸婦像のドローイングです。

エゴン・シーレ《しゃがむ裸の少女》1914年、黒チョーク、グワッシュ、レオポルド美術館蔵

「あらゆる肉体から発せられる光」を描こうとし、また美的に昇華しない過激な「性」を描写していたシーレにとって、裸婦像も極めて重要なモチーフでした。伝統的な裸婦像といえば、立つか横たわるかのポーズで描かれますが、シーレ作品の裸婦の多くは膝を抱えたり、うずくまったり、極端にねじったりと、バラエティに富んでいるのが特徴。

彼女たちの肉体はときに苦悶が伝わってくるほど追い詰められた態勢になりますが、それがいかにも美しく、生々しく映るのが不思議です。シーレの描く線の確信性は、自らの肉体を限界まで屈曲させるなど、シーレ自身が行った容赦ない身体性の探求が支えていることは疑いようもありません。

床や背景を排除し、人物の周りの余白を残すことで空間性を否定している画面構成も面白いところです。

エゴン・シーレ《リボンをつけた横たわる少女》1918年、黒チョーク、レオポルド美術館蔵

特に目を引きつけられたのは後年のドローイング。黒チョークによる表現力豊かな輪郭線とわずかなグラデーションによってモデルを探求していますが、その迷いのない線とシルエットの実に美しいこと。《リボンをつけた横たわる少女》(1918)のように複雑な姿勢も最低限と言えるレベルの筆致でスケッチしているのもかかわらず、これだけで一つの芸術作品といえるような完成度の高さです。

シーレが学年最年少でアカデミーに特別入学できたという、その才能の説得力がありますので、ぜひチェックしてみてください。

エゴン・シーレ《装飾的な背景の前に置かれた様式化された花》1908年、油彩、金と銀の顔料、レオポルド美術館蔵

正方形のカンヴァスや背景に金や銀を用いる手法といった、クリムトの影響が如実に表れている《装飾的な背景の前に置かれた様式化された花》(1908)や、それより以前のアカデミー時代など、シーレが独自の画風を確立する前の初期の作品もいくつか紹介されていました。画家が羽化する道程と、画風を確立した後も強迫観念的な探求心で絶え間なく様式を変化させていった様子をじっくり追っていけます。

クリムトやモーザ―など、世紀末ウィーンの美術を彩った画家たち

グスタフ・クリムト《赤い背景の前のケープと帽子をかぶった婦人》1897/98年、油彩、クリムト財団蔵

先述のように、本展はシーレ作品をメインに据えつつ、シーレの師であるクリムトはもちろん、クリムトとともにウィーン分離派を創設し、風景画やグラフィックアートを得意としたコロマン・モーザー(1868-1918)、オーストリア表現主義の最初の画家に位置付けられ、近年再評価が進んでいるリヒャルト・ゲルストル(1883-1908)、シーレと同じくウィーンの表現主義を代表する巨匠オスカー・ココシュカ(1886-1980)といった、シーレと関連性のあるウィーンの画家たちの作品が集結。ウィーン美術の黄金時代の流れのなか、いかにしてシーレが傑出したのか、その背景が見えてくるでしょう。

アルビン・エッガー=リンツ《祈る少女 聖なる墓、断片Ⅱ》1900/01年、油彩、レオポルド美術館蔵
カール・モル《ハイリゲンシュタットの聖ミヒャエル教会》1902年、多色木版、レオポルド美術館蔵
リヒャルド・ゲルストル《田舎の二人》1908年、油彩、レオポルド美術館蔵
コロマン・モーザ―《キンセンカ》1909年、油彩、レオポルド美術館蔵
グスタフ・クリムト《シェーンブルン庭園風景》1916年、油彩、レオポルト美術館寄託(個人蔵)

シーレ作品がもつ現代性は、100年経った今も損なわれていません。

あらためて、本展は夭折の天才画家エゴン・シーレの作品が50点集結した大変貴重な機会です。ぜひ足を運んで、シーレの震えるように挑発的で繊細な感性に触れるとともに、世紀末ウィーンに満ちていた創造のエネルギーを体感してみてください。

「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」概要

会期 2023年1月26日 (木) ~ 4月9日 (日) ※会期は変更になる場合があります。
会場 東京都美術館(東京・上野公園)
開室時間 9:30~17:30、金曜日は20:00まで (入室は閉室の30分前まで)
休室日 月曜日
観覧料 【日時指定予約制】
一般 2,200円、大学生・専門学校生 1,300円、65歳以上 1,500円、平日限定ペア割 3,600円

※詳細は公式サイトのチケットページでご確認ください
https://www.egonschiele2023.jp/ticket.html

主催 公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、朝日新聞社、フジテレビジョン
後援 オーストリア大使館、オーストリア文化フォーラム東京
お問い合わせ ハローダイヤル 050-5541-8600 (全日/9:00~20:00)
展覧会公式サイト https://www.egonschiele2023.jp

※記事の内容は取材日(2023/1/25)時点のものです。最新の情報は展覧会公式サイト等でご確認ください。

 

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る

【取材レポ】日本初上陸の将軍俑も!「兵馬俑と古代中国展」が上野の森美術館で開幕

上野の森美術館
展示風景

日中国交正常化50周年を記念した展覧会「兵馬俑(へいばよう)と古代中国〜秦漢文明の遺産〜」が2022年11月22日より、上野の森美術館で開幕しました。(会期は2023年2月5日まで)

36体の兵馬俑を軸に、約200点の貴重な文物で古代中国文明の遺産を紹介する本展。開幕前日に行われた報道内覧会を取材してきましたので、展示の様子をレポートします。

展示入口
展示風景
展示風景
展示風景
展示風景 《彩色一角双耳獣》漢、陶、永寿県博物館

2000年の時を超えた、壮大な歴史との対峙

俑(よう)とは、古代中国において権力者の遺体とともに埋葬された、木や土で作られた人形(ひとがた)です。

1974年、始皇帝陵から約1.5km離れた場所で農民が井戸を掘っていたところ、一体一体顔も服装も異なる、ほぼ等身大の兵士や馬を模した俑が大量に出土。調査により、それらの兵馬俑は死後の始皇帝を守るために地下に配置されたものだとわかり、20世紀の考古学における最大の発見の一つと話題になりました。現在も発掘作業は続いていますが、その数は推計約8000体にも及ぶそうです。

紀元前221年、7国が争った春秋戦国時代を終わらせ、中国史上初めて統一王朝を打ち立てた始皇帝の秦王朝はわずか十数年で滅びましたが、兵馬俑はその絶大な国力を現代に伝えています。

本展はそんな秦王朝と、紀元前202年、秦が滅んだ後に劉邦が創始した、中国古代における黄金時代とされる漢王朝の中心地域である関中(現在の陝西省)の出土品を中心に、日本初公開の一級文物(最高級の貴重文物を指す中国独自の区分)など約200点を紹介するものです。

谷原章介さん

オープニングイベントには、展覧会のナビゲーターであり音声ガイドのナレーションも務めた俳優の谷原章介さんが駆けつけました。

会場にずらりと並んだ兵馬俑を見て「圧巻。モノとしての存在感の大きさに驚かされました」とコメント。「古くから作られているもののうち、残りやすいのは焼き物や金属製の品。織物や紙に書かれた書などのない展示を見て、それだけ古い時代の貴重なものが集まったんだなというのをすごく感じました」と、ひと足早く会場を巡った感想を述べます。

さらに、本展には春秋戦国時代を描いた人気漫画『キングダム』とコラボしたコーナーがあり、本人も作品の大ファンであることに触れ、「『キングダム』ファンの皆さんは作品の大好きな世界観を実感するためにも、ぜひこの展覧会にお越しいただけたら」と呼びかけました。

日本初公開となる貴重な将軍俑が来日!

会場では、紀元前770年の周王朝の遷都から220年の漢王朝の崩壊まで、およそ1000年に渡る時代の歴史資料を「第1章 統一前夜の秦~西戎から中華へ」「第2章 統一王朝の誕生~始皇帝の時代」「第3章 漢王朝の繁栄~劉邦から武帝まで」という3章構成で紹介しています。

立ち並ぶ兵馬俑

見どころは36体の兵馬俑ですが、特に「第2章 統一王朝の誕生~始皇帝の時代」にある始皇帝時代の兵馬俑の数々は、像高が平均で180cm前後ということで非常に迫力がありました。

日本では過去にも何度か兵馬俑をテーマにした展覧会が開催されてきましたが、本展の一番の特徴は、約8000体あるとされる始皇帝の兵馬俑のうち、11体しか出土していない貴重な「将軍俑」の、日本初公開の1体が来日していること。

一級文物《戦服将軍俑》統一秦、陶、秦始皇帝陵博物院

こちらがその《戦服将軍俑》です。「将軍」と名前がついていますが、正しくは軍吏や、戦車に乗り、歩兵や騎兵の小部隊を統率した高級武官の姿を模したものを指しています。像高は196cmと長身。

いくつもの兵馬俑が並ぶなかでも、頭に「鶡冠(かつかん)」という独特の形をした冠を被っているので、ひと目でそれとわかりました。鶡はキジ科の山鳥のことで、攻撃されると激しく反撃に出ることから、その尾羽を武人の冠に用いられるようになったとか。

兵馬俑はもともと鮮やかに彩色されていたことがわかっていて、右の頰や耳のあたりをよく見ると、白地に肌色を重ね塗りした跡があり、在りし日の名残を感じられます。右手が不自然に丸められていますが、これは剣を持つ様子を表しているそうですよ。

一級文物《立射武士俑》、統一秦、陶、秦始皇帝陵博物院
一級文物《跪射武士俑》、統一秦、陶、秦始皇帝陵博物院

立射する者、弩(いしゆみ)を持って待機する者など、顔や服装だけでなくポーズも多様なのが面白いところ。

一級文物《跪座俑》、統一秦、陶、秦始皇帝陵博物院

静かな佇まいが目を引く、像高64cmと等身大というにはやや小さい《跪座俑(きざよう)》は、馬や動物を飼育する役人を忠実に模したもの。兵士と馬の陶俑という組み合わせで埋葬されることもありますが、本作のような跪座俑は本物の馬や動物を埋葬する馬厩坑(ばきゅうこう)や珍禽異獣坑(ちんきんいじゅうこう)という場所に配置されていたようです。

周王朝のために馬を繁殖させて秦という土地を与えられたという経緯から、秦にとって馬は勢力の発展に欠かせない存在でした。死後の世界にも世話役を、という、秦の人々の馬や動物への心情の深さが感じられます。

同フロアには戦車馬の陶俑の姿もありました。

一級文物《戦車馬》、統一秦、陶、秦始皇帝陵博物院

兵馬俑は、当時すでに廃止された人間の殉葬(墓主の死に合わせて殺され、埋葬されること)の代わりに生まれたもので、始皇帝の兵馬俑は生前、彼に仕えた実在の軍隊・人物をモデルに作られたといいます。

武器を携えたポーズをとる兵馬俑もいますが、見渡してみると、戦いに赴く厳めしい表情は発見できず、逆に穏やかで生き生きした表情が多いことに気づきます。始皇帝は生前から自身の陵墓を造営し始めていたと知り、これらの表情は、死後の世界の安息を願った始皇帝本人の指示だったのかもしれないと想像がふくらみました。

兵馬俑の興味深いところは、これほどリアルで等身大サイズのものは、始皇帝時代にしか見られないという点。

会場では、秦王朝における兵馬俑の最古の作例の一つである《騎馬俑》や、前漢の頃に作られた《彩色歩兵俑》なども鑑賞できますが、いずれも像高は1mもなく、前漢のものはデザインが簡略化・画一化されています。つまり、ほぼ等身大で、しかも一体一体モデルがいるという始皇帝時代の兵馬俑はかなり特殊なのです。

一級文物《騎馬俑》戦国秦、陶、咸陽市文物考古研究所
《彩色歩兵俑》前漢、陶、咸陽博物院

始皇帝の兵馬俑が作られた理由について、本展の監修者である学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、

■(先述したように)本物の馬や動物を丁寧に埋葬する際、世話役として跪座俑をわざわざ配置する、後に等身大の陶馬と陶俑を組み合わせるなど、馬や動物を尊んだ秦人の精神の賜物なのではないか。

■戦国時代の秦の墓からギリシャ神話の葡萄酒の神・ディオニソスを描いた装飾板が発見されたことなどから、古代ギリシャの彫刻と芸術の影響を受けていたのではないか。

といった推測をしているそうです。

かつて孔子は、人間をかたどった姿である俑を批判しましたが、焚書坑儒で知られる始皇帝ですから、それを知っていてあえて孔子の教えに反するものを作ったのかもしれません。

寝殿や祭祀施設などが備わっていた始皇帝陵の周辺では、展示にはありませんが、兵士だけではなく、文官や音楽家、曲芸師の俑も発見されているとか。
いずれにせよ、徹底した写実性をもたせたこれらの兵馬俑は、当時の秦の姿をそのまま再現するかのようで、当時の秦という国の絶大な国力だけでなく、始皇帝の並々ならぬ死後の世界への期待、支配者としての矜持が感じられました。

『キングダム』の世界の理解が深まる展示品も

春秋戦国時代を舞台に、秦の中華統一に至る道のりを描く人気漫画『キングダム』と本展がコラボしていることは先述しましたが、コラボの様子がこちら。

一級文物《2号銅車馬》の複製品が置かれた『キングダム』コラボコーナー

《2号銅車馬》(複製品)が置かれた部屋をぐるりと囲むパネル展示により、同作に登場する歴史上の人物・場所や武具・装飾品と、本展の出品物を照らし合わせ、古代中国への理解を深められるようになっています。

パネル展示

この《2号戦車馬》は始皇帝陵から発掘されたもので、実物の2分の1サイズ。始皇帝の生前の巡行の威容を残しています。精巧な部品を組み合わせていることから、古代中国の青銅技術の最高峰と称えられているとか。

左のパネルに銅車馬が描かれています。

実はこの銅車馬、『キングダム』第1話で昌文君が載っていた馬車と(2頭立て、4頭立てという違いはありますが)よく似ています。このような細かな描写から作品の世界にリアリティが生まれるのだなと、あらためて魅力に気づかされます。

一級文物《青銅戟》秦、青銅、秦始皇帝陵博物院

また、作中指折りの人気キャラクターであり、嬴政(のちの始皇帝)に立ちはだかる秦国の丞相・呂不韋にゆかりがある《青銅戟(せいどうげき)》も発見。「戟」とは、戈(か)という武器に矛を付けた武器のことです。本品は兵馬俑坑で発見されたもので、「三年相邦呂不韋造」との文字が刻まれていて、呂不韋がこの武器の製造責任者であったことがわかります。

このように、本展のあちこちに『キングダム』の世界とリンクする出品物が登場しますので、ファンの方はぜひ会場の隅々までチェックしてみてください。

古代中国の人々の息遣いを感じる

《玉人》戦国秦、玉、宝鶏市陳倉区博物館
一級文物《鎏金青銅馬》漢、金、茂陵博物館

そのほか、青銅器や玉なども選り抜きの名品が揃っています。なかでも、日本初公開となる前漢の武帝が作らせたという秘宝《鎏金青銅馬(りゅうきんせいどうば)》は存在感がありました。金メッキの馬の像で、そのモデルは「一日千里を走る」と謳われた西の大宛の名馬”汗血馬”とされ、武帝がまだ見ぬ汗血馬への憧れを託して作らせたと考えられています。

《里耶秦簡》統一秦、木、里耶秦簡博物館
《鳳鳥青銅盉》春秋秦、青銅、宝鶏市陳倉区博物館
一級文物《鳳鳥銜環青銅薫形器》戦国秦、青銅、宝鶏市鳳翔区博物館

《里耶秦簡》という古代の行政文書や金印など最高級の貴重文物もあれば、貨幣や壺、甕、香炉、盤(ばん/手洗いの道具)、盉(か/酒や水をそそぐ器)、鼎(てい/肉や魚を煮るための道具)など、古代中国に生きた人々の生活が浮かび上がる品々も幅広く紹介され、古代中国の入門編としてもピッタリの内容となっていました。

ちらほらと素朴な動物モチーフの文物もあり、癒されました。《彩色陶羊尊》漢、陶、楡林市公共文化服務中心

古代中国のロマンが感じられる展覧会「兵馬俑と古代中国〜秦漢文明の遺産〜」の開催は2023年2月5日までとなっています。

 

「兵馬俑と古代中国〜秦漢文明の遺産〜」概要

会期 2022年11月22日(火)~2023年2月5日(日)
開館時間 9:30〜18:00入館は閉館30分前まで
休館日 2022年12月31日(土)〜2023年1月1日(日)
会場 上野の森美術館
主催 東京新聞、フジテレビジョン、上野の森美術館、陝西省文物局、陝西歴史博物館(陝西省文物交流中心)、秦始皇帝陵博物院
お問い合わせ 050-5541-8600(ハローダイヤル/9:00~20:00)
展覧会公式サイト https://heibayou2022-23.jp

※記事の内容は取材日(2022/11/21)時点のものです。最新の情報は展覧会公式サイト等でご確認ください。

 


その他のレポートを見る

【会場レポ】総展示“毒”数 250超え! 特別展「毒」が国立科学博物館で開幕(~2023年2月19日まで)

国立科学博物館

東京・上野の国立科学博物館では2022年11月1日(火)~2023年2月19日(日)の期間、特別展「毒」が開催されています。

地球上に存在するさまざまな「毒」を、動物学、植物学、地学、人類学、理工学のスペシャリストたちが徹底的に掘り下げて紹介する本展。

開幕に先駆けて行われた報道内覧会に参加してきましたので、展示内容や会場の様子など、感想を交えつつレポートします。

会場入口
会場風景
会場風景
会場風景
会場風景

毒・毒・毒…あらゆる毒を横断的に解説する特別展

動物、植物、菌類、鉱物、さらには人工毒など、自然界や人間社会に存在するさまざまな「毒」は、大まかにまとめると「ヒトを含む生物に害を与える物質」として理解されています。

特別展「毒」は、そんな毒をもった生物や毒性ある物質を集め、毒の多様性を紹介するにとどまらず、毒とともに進化してきた生物の歴史や、古代より毒を、時には武器、時には薬として使用してきた人間と毒との関係など、「毒とはいったい何か?」を多角的に解説するもの。

毒をテーマにした特別展は、国立科学博物館では初の試みとなります。

登場する毒の総数はなんと250超え!
動物学、植物学、地学、人類学、理工学と、各研究部門のスペシャリスト9名による国立科学博物館ならではの網羅的な解説や、貴重な標本資料などが楽しめる内容になっています。

会場入口で手に入る毒クイズ。忘れずにゲットしましょう。

会場内では、クイズ王・伊沢拓司さん率いるQuizKnockが出題する「毒クイズ」を解きながら毒の知識を深められるほか、アニメ「秘密結社鷹の爪」シリーズでおなじみの「鷹の爪団」が世界征服に使えそうな毒を探索するついでに、会場内のあちこちに登場して毒の世界に対して面白いコメントを残してくれています。

「鷹の爪団」のコメントにより、さらに楽しく会場を回れます。

また、今回が初の博物館音声ガイドとなる声優の中村悠一さんによる音声ガイド毒がテーマの大人気小説『薬屋のひとりごと』のイラストを手掛ける、しのとうこ先生による描き下ろしイラストが楽しめるなど、さまざまなクリエイターが本展を盛り上げています。

報道内覧会前に行われたオープニングトークでは、本展の監修統括をつとめた国立科学博物館 植物研究部長の細矢剛さんと、本展のオフィシャルサポーターに就任した伊沢拓司さんからメッセージをいただきました。

前列、一番右が細矢さん、右から二番目が伊沢さん。周りは本展の監修者のみなさま。

細矢さんは、「この展覧会は、毒の多様性・多面性を理解してもらいたいと考えて企画されました。毒というのは物質ではありますが、自然の働き・営みというものを理解するために生み出されたアイデア・概念と考えることもできると思います。毒と向き合う姿勢は科学そのものです」と本展の企画意図を語ります。

科博の各研究部門を横断する企画ということで見せたいネタが多すぎ、情報の厳選や展示にストーリー性をもたせることに苦労したとのこと。

ベニテングタケのぬいぐるみを抱える伊沢さん

伊沢さんは、毒に対して「子どもの頃から恐怖を感じつつも、同時に魅力的で惹かれてしまう存在」というイメージをもっていたそう。本展を鑑賞してみて、「展示が重厚です! 子どもから大人まで楽しめるギミックが用意されている。見ごたえがあるので2時間は(鑑賞の)時間をとっていただきたい。僕は展示を一周するのに3、4時間はかかるかな」と内容の充実ぶりをアピールします。

「毒というと怖い印象があるので、もしかすると親御さんが子供に見せたくないと思ってしまうかもしれませんが、大事なのは正しく知って正しく恐れること。なんとなく恐れるのではなく、正しく知って、日常の中にある毒から我々は逃れられないからこそ、うまく付き合っていくこと(の大切さを)を、知識を得ながら感じていただければ嬉しい」と締めくくりました。

ハブやスズメバチの大迫力の拡大模型が来場者をお出迎え!

本展は第1章~第4章、終章の全5章構成となっています。

「生活の中の毒」パネル

毒とはどんなものか、その概念をつかむための動画やパネルが用意された「第1章 毒の世界へようこそ」では、室内や身近な野外で私たちが出会いそうな毒を紹介する「生活の中の毒」のパネルが人気を集めていました。

パネルを見て、「かびたパン」「一酸化炭素」などはフムフムといった感じですが、「ブドウ」や「ピーナッツ」など普段なにげなく食べている食材も例として挙がっていてギョッとします。(これがどんな毒になるのかは展示の最後で明かされています)

毒に対して、サスペンスで事件に用いられる毒薬や毒ヘビ、毒グモなど、なんとなく非日常のイメージをもっていましたが、「言いすぎかもしれませんが、私たちは毒に囲まれて生活しています」と解説にあるとおり、全くそんなことはないというのが早速分からされる導入部です。

「第2章 毒の博物館」展示風景

続いて本展のメインともいえる、私たちの周りのさまざまな毒や毒をもった生物を紹介する「第2章 毒の博物館」エリアに突入します。

ここでは、獲物の捕獲や無力化に用いられる「攻めるための毒」と、外敵から身を守るために用いられる「守るための毒」の解説のために制作された圧巻の拡大模型が登場!

実物比の約30倍のハブ、約40倍のオオスズメバチ、約70倍のセイヨウイラクサ、約100倍のイラガの幼虫の4体がありました。

ハブとオオスズメバチの拡大模型

キバや針をむき出しに襲い掛かろうとしているハブとオオスズメバチの模型のディティールには目を奪われます。躍動感がすごい……!

「日本の三大有毒植物」であるドクウツギ、トリカブト、ドクセリの展示
ズグロモリモズの展示

「日本の三大有毒植物」や、その毒性を遥かにしのぐ世界の有毒植物、毒をもつ世にも珍しい鳥類「ズグロモリモズ」、食用キノコと間違われやすい毒キノコ、かつて不老不死の薬だと信じられた猛毒の水銀など、バラエティに富んだ毒が次々に登場して知識欲が大いに刺激されます。

トビズムカデやツシマハリアリなど、毒虫の展示
ガンガゼやスベスベマンジュウガニなど、海岸で見られる有毒生物の展示

面白かったのは、「毒のカクテル」と表現される多様な化学物質がブレンドされた毒をもつハチにまつわる展示の一画にあった、「シュミット指数」についてのコラム。

シュミット指数のコラム

シュミット指数とは、アメリカのジャスティン・シュミット博士(1947-)が「どのハチに刺されるのが一番痛いのか」という疑問に対し、実際にハチに刺されてみる(!)ことで痛みを相対的に数値化したもの。(この研究で博士はイグノーベル賞を受賞したそうです)

「カッと熱くなるような鋭い痛み。まろやかなハヴァティチーズだと思って食べたら、極辛のハラペーニョ入りチーズだったような」など、シュミット指数に添えられた比喩表現が妙に巧みなのが笑いを誘います。

人間は毒によって進化した生物? 人間の歴史は毒とともにあった

「第3章 毒の進化」展示風景

たっぷりの毒知識を入手できる大満足間違いなしの第2章を抜けても、まだまだ展示は続きます。

ここまで生物や鉱物の世界を探検しているような空間演出でしたが、「第3章 毒の進化」からは一転、清潔感のあるラボのような雰囲気に。

ここでは毒のある生物への擬態や、有毒生物からの毒の盗用、毒に耐える性質の獲得、毒を利用した種子の散布戦略など、毒がきっかけとなった進化の例を紹介しています。

酸素の展示

たとえば、多くの生物に必要不可欠な酸素にも実は毒性があります。私たちヒトも、毒に適応して進化した生物だったのです。

また、自身が有毒動物であることを周囲に伝え、無用な争いを避ける効果がある「警告色」をもつように進化したのは、キオビヤドクガエルやアカハライモリ。

キオビヤドクガエルの展示
アカハライモリの展示

キオビヤドクガエルの「黄色×黒」の警告色は、オオスズメバチなど他の生物にもよく見られますが、アカハライモリは「赤×黒」。この違いには何か理由があるのかと思っていましたが、要は「明るい色と暗い色のコントラスト」が重要なのだとか。

「ユーカリVSコアラ」の展示

毒に耐える性質の獲得の例としては、「ユーカリVSコアラ」の展示がありました。

ユーカリは葉が硬く、繊維質が多く栄養素も少なく、さらには毒性をもつ化学物質が多く含まれるなど、草食動物から身を守る防御戦略が徹底しています。そのユーカリ林で繁殖したに成功したコアラは、ユーカリの葉の毒に耐えるさまざまな特徴を発達させた対ユーカリのスペシャリスト。かわいい顔でも体の中は強靭なんですね……!

「第4章 毒と人間」展示風景

「第4章 毒と人間」は、狩猟や戦に利用したり、「毒」を研究することにより薬を生み出したりと、私たち人間にとって毒とはどんな存在だったのかを振り返りながら、科学の進歩による毒の解明、その利用など、「毒」の研究についても紹介するエリアです。

南アフリカのボーダー洞窟で発見された約2万4000年前の「切れ目のある木の棒」のレプリカが、人が毒を使用した最古の証拠として展示されていて、人間と毒との長い歴史を感じます。

「おしろい文化」の展示

鉛や水銀など毒性がある成分が含まれる白粉が使われていた江戸時代の「おしろい文化」や、1890年に日本で発明された、植物が捕食者から身を守るために合成している毒を使った蚊取り線香など、日本文化と毒との関係も興味深いものでした。

「毒生物料理」の展示

毒の除去、無毒化によって本来なら食べられない生物を食材として生かしている「毒生物料理」の技の紹介も。

フグやウナギは知っていましたが、少し前に日本で大ムーブを巻き起こしたタピオカの原料であるキャッサバも無毒化が必要な作物だったとは……。人間の食に対する飽くなき探求心が、毒性を乗り越える原動力になっていたことが分かります。

「終章 毒とはうまくつきあおう」展示風景

ここまでの展示で、私たちのまわりは毒だらけだということがはっきりと理解できます。今でも新しい毒が生まれたり、発見されたり……ヒトは生きていく限り、毒と付き合っていかざるを得ないことが身に染みたところで、展示はラストの「終章 毒とはうまくつきあおう」へ。

会場全体を振り返り、毒というのはどういう存在か、毒から逃れられない私たちが毒とどう向き合っていくべきかをあらためて考えるための象徴的な毒の展示が、本展を締めくくります。

第2会場 展示風景

展覧会特設ショップへ向かう途中にある第2会場では、本展を監修した9名の研究員と「鷹の爪団」にとっての「毒」とは何かを聞いたインタビューを読む(見る)ことができました。

特に「毒にあたらないように注意していることはありますか?」という質問への回答は、研究者ならではの体験を交えたアドバイスになっているのでぜひ一読を。

展覧会特設ショップの様子

展覧会特設ショップではTシャツや図鑑風下敷き、ポップなデザインのポーチなど本展オリジナルグッズが多数販売中。ベニテングタケやツキヨタケの大きなぬいぐるみもかわいいですが、なかでも『特別展「毒」焼印入まんじゅう』はドッキリアイテムとしておすすめ。中身の餡もむらさき芋使用で毒々しさマシマシです。

特別展「毒」焼印入まんじゅう(6個入/税込972円)

毒の神秘と驚きに触れながら、ヒトと毒との関係の「これまで」と「これから」を考える特別展「毒」。一部、ムカデや毒虫など人を選ぶ展示もあるので苦手な方は注意が必要ですが、ぜひ皆さんも、奥深い毒の世界に足を踏み入れてみてください。

特別展「毒」概要

会期 2022年11月1日(火)~2023年2月19日(日)
※会期等は変更になる場合があります。
会場 国立科学博物館(東京・上野公園)
開館時間 9時~17時(入場は16時30分まで)
休館日 月曜日、12月28日(水)~1月1日(日・祝)、1月10日(火)
※ただし1月2日(月・休)、 9日(月・祝)、2月13日(月)は開館。
入場料(税込) 【一般・大学生】2,000円 【小・中・高校生】600円

※入場にはオンラインによる日時指定予約が必要です。
※未就学児や、障害者手帳をお持ちの方とその介護者1名は無料です。日時指定予約は必要となりますのでご注意ください。

お問い合わせ 050-5541-8600(ハローダイヤル)
展覧会公式サイト https://www.dokuten.jp/
主催 国立科学博物館/読売新聞社/フジテレビジョン
監修 ・細矢 剛(国立科学博物館 植物研究部長)
・中江 雅典(国立科学博物館 動物研究部 脊椎動物研究グループ 研究主幹)
・吉川 夏彦(国立科学博物館 動物研究部 脊椎動物研究グループ 研究員)
・井手 竜也(国立科学博物館 動物研究部 陸生無脊椎動物研究グループ 研究員)
・田中 伸幸(国立科学博物館 植物研究部 陸上植物研究グループ長)
・保坂 健太郎(国立科学博物館 植物研究部 菌類・藻類研究グループ 研究主幹)
・堤 之恭(国立科学博物館 地学研究部 鉱物科学研究グループ 研究主幹)
・坂上 和弘(国立科学博物館 人類研究部 人類史研究グループ長)
・林 峻(国立科学博物館 理工学研究部 理化学グループ 研究員)

※記事の内容は取材日(2022/10/31)時点のものです。最新の情報は展覧会公式サイト等でご確認ください。

 

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る

【会場レポ】特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」がついに開幕!国宝89件が全公開、三日月宗近など19の刀剣が揃う「国宝刀剣の間」も

東京国立博物館

※本記事は2022年10月22日に作成されたものです。紹介した展示作品の中にはすでに展示期間を終了しているものもありますのでご注意ください。(2022年12月1日)

 

2022年10月18日〜12月11日の期間、東京国立博物館(以下、東博)では特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」が開催されています。

創立150周年というメモリアルイヤーを記念した本展では、東博が所蔵する国宝89件すべてに加え、重要文化財も多数出品! 美術ファンでなくても見逃せない内容になっています。

開催に先立って行われた報道内覧会に参加してきましたので、その豪華すぎる会場の様子を詳細レポートします。

 

*本展は事前予約制(日時指定)です。
*会期中展示替えがあります。
*特別な記載のない作品はすべて東京国立博物館所蔵です。

展示風景「国宝刀剣の間」
展示風景
展示風景、狩野長信筆《花下遊楽図屛風》江戸時代 17世紀 展示期間 : 10/18~11/13
展示風景、写真手前は《扁平鈕式銅鐸》伝香川県出土、弥生時代、前2~前1世紀、展示期間 : 10/18~12/11

この先50年は実現困難!?驚異の展覧会の幕開け

特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」は、150年という日本で最も長い歴史をもつ博物館・東博の全貌を紹介するべく、約12万件という膨大な所蔵品の頂点ともいえる国宝89件すべてを含む名品と、明治時代から続く150年の歩みを物語る関連資料を展示する展覧会です。

東博の国宝コレクションは日本最大で、89件というのは現在国宝に指定されている美術工芸品の約1割に当たります。その数だけ見ても、本展がどれだけスペシャル仕様なのかがお分かりいただけるはず。

もちろんこのような展覧会は前代未聞、史上初!
今年5月に行われた報道発表会では、東博の研究員の方々ですら、国宝89件すべてを勢ぞろいさせた光景は今まで見たことがないと語っていました。

数年前からの細かな展示計画の調整が非常に大変だったそうで、「次の開催は200周年のとき、50年後かもしれません」とのお話でした。一生に一度のチャンスの可能性もあるので、気になっている方は意地でもスケジュールを調整してほしいところ。

長谷川等伯、雪舟、本阿弥光悦…美の神髄は今、東博で出会える

本展は「第1部 東京国立博物館の国宝」「第2部 東京国立博物館の150年の歩み」の2部構成となっています。

「第1部 東京国立博物館の国宝」は、見渡す限り国宝のみがシンプルに展示されているエリア。国宝89件の内訳は、絵画21件、書跡14件、東洋絵画4件、東洋書跡10件、法隆寺献納宝物11件、考古6件、漆工4件、刀剣19件です。

 

*展示替えを含めての「すべて公開」ですので、一度訪れるだけでは国宝全件を鑑賞できない点はご注意ください。(どのタイミングでも、1回の観覧で鑑賞できる国宝は60件前後になるようです)
また、展覧会公式サイトでは全件の展示スケジュールが公開されています。

長谷川等伯筆《松林図屛風》安土桃山時代、16世紀 展示期間 : 10/18~30

会場に入ると、まずは挨拶代わりに安土桃山時代に活躍した絵師・長谷川等伯の代表作《松林図屛風》が登場。

「東博といえばこれ」と感じる国宝のひとつですが、その高潔な佇まいに、見るたび息を飲みます。松林を取り巻く清涼な大気の湿度すら感じられる画面、墨一色でここまで描けてしまうものなのかと。松は幻のように幽玄な雰囲気をまとっているのに、近づいて見れば筆致が驚くほど激しいことに圧倒されます。

日本水墨画の最高峰と言われていますが、「実は下絵だったのでは疑惑」があるのが面白いポイント。

展示風景、渡辺崋山筆《鷹見泉石像》江戸時代 天保8年(1837)展示期間 : 10/18~11/13
雪舟等楊筆《秋冬山水図》室町時代、15〜16世紀、展示期間 : 10/18~11/13
《孔雀明王像》平安時代、12世紀、展示期間 : 10/18~11/13

平安時代を代表する仏画《孔雀明王像》はシンメトリーな構図が美しく、赤、金、緑、藍など彩色も華麗で目を引きました。

肌は淡く赤がにじみ、輪郭線も桃色でふっくらと柔らかい印象を受けます。明王は怒った顔がデフォルトですが、孔雀明王は例外で、こちらの孔雀明王も菩薩のように柔和で慈愛溢れる表情を浮かべています。向かい合うとどんどん心が穏やかに……。

さらによく目を凝らすと、衣服やアクセサリー、孔雀の羽などに見られる金箔や金泥を用いた截金文様のすばらしいこと! 経年で褪せているので気づきにくいですが、特に下半身の衣服の職人芸は必見。当時はどれだけ煌びやかに輝いていたのでしょうか。

人々の災いを取り除くとされる孔雀明王ですが、手に持つ吉祥果が子孫繁栄の象徴とも見なされる柘榴であることから、高位の貴族が安産祈願のために描かせたものでは、と考えられているとか。

《平治物語絵巻 六波羅行幸巻》鎌倉時代、13世紀、松平直亮氏寄贈、展示期間 : 10/18~30
《平治物語絵巻 六波羅行幸巻》(部分)

鎌倉時代に描かれた合戦絵巻の傑作《平治物語絵巻 六波羅行幸巻》も要注目。

平治の乱を題材に、幽閉された二条天皇が女房姿で脱出を図り、平清盛の六波羅邸に逃れる前後の様子が描かれています。武士たちの甲冑や刀剣のリアルな描写を楽しめる作品ですが、全長が約9m50cmもあるため、スペースの関係で普段の展覧会ではなかなかすべてを広げることは少ないそう。

しかし、そこはさすが国宝展! 全場面を漏れなく鑑賞できるように展示してくださっていました。ただし、公開は10月30日まで。2週間限定展示なので注意です。

小野道風筆《円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書》(部分)、平安時代、延長5年(927)展示期間 : 10/18~11/13
《古今和歌集(元永本)》上帖、平安時代、12世紀、展示期間 : 10/18~12/11、会期中、頁替えあり

書跡では、聖武天皇が書いたと伝わる、墨をたっぷり含んだ堂々たる大字が魅力であり、かつては手鑑の冒頭を飾る名筆として珍重されたという《賢愚経残巻(大聖武)》(奈良時代、8世紀、展示期間 : 10/18~11/13)や、三蹟の一人であり、紫式部が『源氏物語』の中で「今めかしうをかしげに目もかがやくまでみゆ(=今風で美しい書はまばゆいほどに見える)」と絶賛した能書家・小野道風による《円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書》などが鑑賞できます。

原装幀のまま『古今和歌集』を完存する現存最古の遺品である《古今和歌集(元永本)》は、文字だけでなく菱唐草文や孔雀唐草文などが雲母摺りされた、平安貴族たちの美意識を感じる豪華な料紙も見どころ。

ほとんど仮名で構成された書であり、料紙に合わせた軽快な筆づかいからは、口に出して読んだときの和歌のリズムも伝わってくるようでした。

李迪筆《紅白芙蓉図》、中国・南宋時代、慶元3年(1197)、展示期間 : 10/18~11/13
《竜首水瓶》飛鳥時代、7世紀、展示期間 : 10/18~12/11
本阿弥光悦作《舟橋蒔絵硯箱》江戸時代、17世紀、展示期間 : 10/18~11/13
《埴輪 挂甲の武人》古墳時代、6世紀、展示期間 : 10/18~12/11
《江田船山古墳出土品》3点。写真左は《金銅製沓》朝鮮・三国時代、5~6世紀、展示期間 : 10/18~12/11

便宜上、数の多い絵画と書跡の作品のいくつかをご紹介してみましたが、正直いって見どころしかありません!

《江田船山古墳出土品》など、一部作品については「こんな国宝もあったんだ」と知る機会になりましたが、基本的に古いものでは紀元前から19世紀の江戸時代まで、教科書でおなじみの作品が息つく間もなく登場します。作品のキャプションに「現存最古の~」や「最高峰の~」といったただならぬ形容詞が当たり前のように並んでいるのが恐ろしいところ。

国宝群のオーラに脳を焼かれますので、鑑賞の際にはぜひ体調をしっかり整えて、滞在時間を十分に確保して休み休み臨まれるのをおすすめします。

会場風景

ちなみに、写真のようにかなり広めに展示スペースが取られていて、椅子も多く設置されていたので、自分のペースで回ることができそうです。

会期が進むと、狩野永徳筆《檜図屛風》(展示期間:11/1〜11/27)、岩佐又兵衛筆《洛中洛外図屛風(舟木本)》(展示期間:11/15~12/11)、尾形光琳作《八橋蒔絵螺鈿硯箱》(展示期間 : 11/15~12/11)などが登場予定。

三日月宗近の“三日月”も堪能できる!「国宝刀剣の間」

「国宝刀剣の間」
《梨地螺鈿金装飾剣》平安時代、12世紀、展示期間 : 通期

開幕前からSNSなどで話題になっていましたが、第1部の後半には19件の国宝刀剣のみを集めた「国宝刀剣の間」が出現。

相州正宗《刀 金象嵌銘 城和泉守所持 正宗磨上 本阿(花押)》鎌倉時代、14世紀、展示期間 : 通期

刃文や地金をより美しく鑑賞してほしいと、展示ケースや照明には非常にこだわったというお話。たしかに、空間全体が暗いため、作品のライティングが非常に映えます。

厳かな雰囲気の中でぼうっと浮かび上がる刀剣。きらめく切っ先の艶やかな美しさには、思わず感嘆の吐息がこぼれました。

長船長光《太刀 銘 長光(大般若長光)》鎌倉時代、13世紀、展示期間 : 通期
古備前包平《太刀 銘 備前国包平作(名物 大包平)》平安時代、12世紀、展示期間 : 通期

人気ゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』でキャラクターのモチーフになった三日月宗近、大包平、大般若長光、小龍景光、厚藤四郎、亀甲貞宗の姿も発見!
ファンにはたまらない空間ではないでしょうか。

三条宗近《太刀 銘 三条(名物 三日月宗近)》平安時代、10~12世紀、展示期間 : 通期

注目を集めていたのは「国宝刀剣の間」の中央に展示されていた、優美な太刀姿の三日月宗近。京都・三条で平安時代後期に活躍した、日本刀成立初期の名工と名高い宗近の代表作であり、数ある日本刀の中でも名刀中の名刀とされる「天下五剣」の一つに数えられています。

三条宗近《太刀 銘 三条(名物 三日月宗近)》(部分)

刃文に「打ちのけ」と呼ばれる、小さなキズのようなものが連なっているのが見えました。これが三日月のようだ、美しい、珍しいということで「三日月」の号がついたとか。

筆者はこれが三日月宗近との初対面。名前の由来は知っていたものの、誰が見ても三日月とわかる大きな模様がひとつ刻まれているのだと勝手に思い込んでいたので、実際は小さく点々と打ちのけが入っていたことに驚きました。

正直、「三日月に見え……見えるか……?」という第一印象でしたが、当時の人々がこれを見て三日月を連想した、その風流で豊かな感性が胸に響きます。

耆安綱《太刀 銘 安綱(名物 童子切安綱)》平安時代、10~12世紀、展示期間 : 通期

事前の報道発表会で、「三日月宗近と同じく日本刀成立初期の名刀として有名な童子切安綱は、実は刃の寸法がまったく同じ。どちらも刃の長さが80cm、反りが2.7cm」というお話を聞いていたので、「そんな偶然があるんだ!」と実際に見比べてみることに。

外見の印象はかなり異なっていて、三日月宗近は切っ先に向けて細くなっていく、優美という言葉がぴったりの細身の刀。一方で童子切安綱は、全体的にどっしりと、どことなく野性味のある力強い太刀姿です。また、三日月宗近は持ち手の茎(なかご)の部分と刃の境でグッと角度がついているというか、強く沿っていますが、童子切安綱は茎と刃でなめらかにカーブを描いているように見えました。

この違いは、京の都を拠点とした宗近に対し、伯耆の国(現在の鳥取県)を拠点とした安綱という作者の居住地の地域文化が、刀の姿に反映されているのではないか、ということでした。同じ国宝、同じ時代、同じ寸法の刀剣の、まったく異なる美しさを堪能する。この贅沢な楽しみ方ができるのも本展ならではでしょう。

出展作品の中でも刀剣は特に、光を刀身に滑らせることで初めて見えるものがあるというか、写真では伝わらない美しさの比率が大きいと感じます。こだわりが詰まった最高の展示空間でその魅力を堪能できますので、刀剣ファン以外の方にも心からおすすめ!

なお、刀剣に関しては19件すべてが通期で公開されています。

キリンの剥製も約100年ぶりに里帰り!東博150年の歩みを振り返る

「第2部 東京国立博物館の150年」

東博は明治5年(1872)に旧湯島聖堂の大成殿で開催された「湯島聖堂博覧会」をきっかけに誕生した「文部省博物館」がルーツ。日本の近代化を図るとともに、日本文化の国内外への発信、文化財の保護を目的に、当初は博物館のほか、植物園、動物園、図書館の機能を併せもつ総合博物館を目指していたそうです。

明治15年(1882年)、上野に拠点を移して活動を本格化。明治19年(1886)に博物館は宮内省所管となり、明治22年(1889)に「帝国博物館」、明治33年(1900)に「東京帝室博物館」と改称されます。この頃は国家の文化的象徴、さらには皇室の宝物を守る美の殿堂と位置付けられ、だんだんと歴史・美術の博物館としての性格を強めていきました。

昭和13年(1938)に現在の本館が開館し、終戦後に所管は宮内省から再び文部省へ。昭和27年(1952)に名称が現在の「東京国立博物館」となり、東洋館、資料館、法隆寺宝物館などを新しい施設を充実させながら今日に至ります。

国宝展、続く「第2部 東京国立博物館の150年」では、そんな東博の150年の歴史を物語る収蔵品や関連資料を3期に分けて展示。明治からの歩みを追体験できます。

名古屋城金鯱の実物大レプリカ

「第1章 博物館の誕生(1872-1885)」では、初期の東博コレクションを中心に、東博誕生のきっかけとなった湯島聖堂博覧会で展示された作品なども紹介。博覧会の雰囲気を再現するため、当時最も人気を集めたという名古屋城の金鯱の実物大レプリカが置かれています。

一部の展示ケースも、100年以上前に実際に使用されていたものを修理して活用したとのことなので、ぜひ注目してみてください。レトロな雰囲気がたまりません。

湯島聖堂博覧会で評判になった品々を描いた《古今珎物集覧》/一曜斎国輝筆《古今珎物集覧》明治5年(1872)、展示期間:通期

明治期の日本の工芸技術の高さを世界に知らしめた《褐釉蟹貼付台付鉢》《鷲置物》には、令和に生きる筆者も目を見張りました。

重要文化財、初代宮川香山作《褐釉蟹貼付台付鉢》明治14年(1881)、展示期間:通期
重要文化財、鈴木長吉作《鷲置物》明治25年(1892)、展示期間:通期

輸出陶磁器の先駆者だった初代宮川香山による《褐釉蟹貼付台付鉢》は、明治14年(1881)に上野公園で開催され、約4ヶ月で80万人以上を動員したという第二回内国勧業博覧会の出品作。今にも動き出さんばかりのリアリティがある蟹が器の縁に爪をひっかけているというダイナミックな構図の作品です。

一方の《鷲置物》は、明治時代を代表する蠟型鋳造の達人・鈴木長吉の代表作。明治26年(1893)に米国で開催されたシカゴ万国博覧会に出品された後に東博に収蔵されました。遠目には剥製と見紛うばかりに生き生きとしていて、今にも獲物を狙って飛びだしそうな躍動感がお見事。

《砲弾(四斤山砲)》東京都台東区上野公園採取、明治時代、19世紀 展示期間:通期

また、東博誕生の関連資料として《砲弾(四斤山砲)》の展示も。

明治元年(1868)に起こった上野戦争の際、寛永寺に立てこもった彰義隊ら旧幕府軍に対して明治新政府軍が撃ち込んだとされる砲弾の実物です。現在は東博の北側に隣接する寛永寺ですが、実は江戸時代には上野公園の土地は寛永寺の境内でした。

彰義隊をかくまったと見なされた寛永寺は、一度すべての境内地を没収されます。その後紆余曲折あり、土地の大部分が上野公園へと姿を変え、近代化をアピールするため博物館を立てたり、博覧会を開催したりするようになりました。上野戦争で焼け野原になり、街づくりをするのにちょうどいい土地だったからこそ、今日の上野公園、引いては東博があるのだと思うと……。悲しい出来事ではありますが、上野戦争も東博誕生のきっかけのひとつと言えるのかもしれません。

《鳳輦》江戸時代、19世紀、展示期間:通期

「第2章 皇室と博物館(1886-1946)」では、宮内省所管時代の東博にフィーチャー。皇室とのゆかりを示す作品も紹介しています。

皇室関係では、巨大な《鳳輦》(ほうれん)と呼ばれる乗り物がひときわ高貴なオーラを出していました。鳳輦は天皇が行幸の際に使用されるもので、こちらの鳳輦は実際に孝明天皇や明治天皇がお乗りになったとか。

黒田精輝筆《瓶花》大正元年(1912年)、展示期間:通期

明治23年(1890)に、優れた美術家の保護奨励制度として皇室により創設された「帝室技能員制度」というものがあり、帝室技能員たちの優品は宮内省所管時代の東博に多く収蔵されたといいます。

《瓶花》は、洋画家とした初めて帝室技能員に任命された明治洋画壇の重鎮・黒田清輝の作品です。画面右下には「黒田清輝謹写」と署名があり、これは黒田の作品には珍しいことなのだとか。帝室への献品という特別な来歴をうかがわせるものです。

《キリン剥製標本》明治14年(1908)、国立科学博物館蔵、展示期間:通期

また、総合博物館を目指していたころの東博の名残を感じるキリンの剥製標本も登場!

動植物や鉱物の標本などの天産(自然史)資料は関東大震災後、東京博物館(現在の国立科学博物館)に譲渡されましたが、こちらの剥製は本展のために、約100年ぶりに里帰りする形になりました。

彼は明治40年(1907)にドイツから生きたまま日本へやってきた初めてのキリン2頭のうちの1頭で、名前は「ファンジ」。当時東博の一部だった上野動物園で飼育され、多くの人々から人気を集めたそうです。

重要文化財、尾形光琳筆《風神雷神図屛風》江戸時代、18世紀、展示期間:10/18~11/13

「第3章 新たな博物館へ(1947-2022)」では、終戦後、国民のための開かれた博物館としての東博が、時代の変化や社会の変化に応じて今日まで取り組んできた活動とこれからの展望を、代表的な戦後コレクションとともに紹介しています。

重要文化財である尾形光琳の《風神雷神図屏風》や「土偶といえばこれ」な方も多いだろう《遮光器土偶》など、国宝エリアに負けず劣らず、こちらにも有名作品が多数展示されていました。

重要文化財、《遮光器土偶》縄文時代、前1000~前400年、展示期間:通期
重要文化財、《伝源頼朝坐像》鎌倉時代、13~14世紀、展示期間:通期
重要文化財、《縫箔 紅白段草花短冊八橋模様》安土桃山時代、16世紀、展示期間:通期

令和の最新コレクションとして、今年2月に東京国立博物館の所蔵品となった《金剛力士立像》の姿も。

《金剛力士立像》平安時代、12世紀、展示期間:通期

この2体はかつて滋賀県・蓮台寺の仁王門に安置されていましたが、昭和9年(1934)の室戸台風で大破してしまったのだとか。長らく壊れたままでしたが、約2年間かけて修理されかつての姿を取り戻し、本展で初お披露目となりました。

数少ない平安時代末期の金剛力士立像で、大きさは2m80cmほどあり、東博の所蔵する仏像の中でも最大のもの。たくましい肉体や怒りの表情を360度からじっくり観賞できます。

また、本作は文化財の収集・保管と保存・修復といった東博の基本的な活動を紹介するものでもあり、会場では修理の様子が映像で紹介されていました。

菱川師宣筆《見返り美人図》江戸時代、17世紀、展示期間:10/18~11/13(11/15~12/11には複製画を展示)

出口では菱川師宣の《見返り美人図》が来場者を見送ってくれます。それとも、名残惜しさに思わず会場を振り返る来場者の気持ちを表しているのでしょうか。

ちなみに、《金剛力士立像》と後述の《見返り美人図》のみ写真撮影OKとなっていました。


 

「ツタンカーメン展」(1965年)、「モナ・リザ展」(1974年)など、東博では150年の歴史の中で人々に語り継がれる展覧会がいくつか開催されてきましたが、本展「国宝 東京国立博物館のすべて」も、きっとその中の一つとなることでしょう。

東京国立博物館創立150年記念 特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」開催概要

※本展は事前予約制(日時指定)です。詳しくは展覧会公式サイトでご確認ください。
※会期中、一部作品の展示替えが行われます。

会期 2022年10月18日(火)~12月11日(日)
会場 東京国立博物館 平成館
開館時間 午前9時30分~午後5時
※金曜・土曜日は午後8時まで開館(総合文化展は午後5時閉館)
休館日 月曜日
観覧料(税込) 一般 2,000円、大学生 1,200円、高校生 900円

※本展は事前予約制(日時指定)です。
※中学生以下は無料。ただし事前予約が必要です。入館の際に学生証をご提示ください。
※障がい者とその介護者1名は無料。事前予約は不要です。入館の際に障がい者手帳等をご提示ください。入館は閉館の30分前までとなります。
※東京国立博物館正門チケット売り場での販売はございません。

主催 東京国立博物館、毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション、独立行政法人日本芸術文化振興会、文化庁
お問い合わせ 050-5541-8600(ハローダイヤル)
展覧会公式サイト https://tohaku150th.jp/

※記事の内容は取材時点のものです。最新の情報は公式サイト等でご確認ください。

 

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る

今ふたたびめぐり合う、源氏物語の世界。【東京都美術館】上野アーティストプロジェクト2022 「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」(~1/6)内覧会レポート

東京都美術館
上野アーティストプロジェクト2022「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」会場風景より

1000年の歳月を超えて読み継がれる平安文学の最高傑作『源氏物語』。

多彩なジャンルの表現者が参加する「上野アーティストプロジェクト」の第六弾として「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」が開催されました。

今回は、開催に先立って行われた報道内覧会の模様をレポートします。

 

守屋多々志 《夕霧「落葉」》1991年 個人蔵

「上野アーティストプロジェクト」は「公募展のふるさと」とも称される東京都美術館の歴史の継承と未来への発展を図るために、2017年より発足されたシリーズです。その第六弾となる本企画は「源氏物語」がテーマ。

源氏物語といえば、平安時代に紫式部によって執筆され、約1000年の間変わらずに読み継がれてきた文学大作です。主人公の光源氏を中心に紡がれる人間模様はもちろん、四季折々の美しい情景が描写され、時代や文化を超えて人びとを魅了してきました。

東京都美術館では、11月19日より絵画・書・染色・ガラス工芸という多彩なジャンルの作家が源氏物語を表現した「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」を開催。源氏物語に刺激を受けた現代作家たちの作品を通じて、物語が紡いできた美意識や魅力を探ろうという試みです。

七人の作家たちが表現する「源氏物語」の世界

鷹野理芳《生々流転Ⅱ~響~54帖・贈答歌「桐壺の巻から夢浮橋の巻」まで》2022年 作家蔵
石踊達哉氏が「花鳥風月」をテーマに手がけた作品群
カラーボールペンによって制作された渡邊裕公氏の人物画。独特の透明感と柔らかさが印象的
ガラス工芸作家である玉田恭子氏の作品。ガラス内部には源氏物語の和歌などが封じ込められ、幻想的な空間を作り出している

「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」の会場はギャラリーA・C。
展示作品のジャンルはガラス工芸、染色、書、絵画と幅広いが、「和歌をよむ」「王朝のみやび」「歴史へのまなざし」といったセクションによって区分けされ、あらためてこれが源氏物語という壮大な「縦糸」によって紡がれた作品であることに気付かされます。
しかし、個々の作家が完全に源氏物語に寄り添っているかといえば、必ずしもそうではありません。むしろ源氏物語というモチーフを題材に、自由に想像の羽根を広げているような印象さえ覚えました。

本展の出品作家は、青木寿恵、石踊達哉、高木厚人、鷹野理芳、玉田恭子、守屋多々志、渡邊裕公(50音順)。
タイトルの「めぐり逢ひける えには深しな」という言葉に示されているように、本展のテーマのひとつは「縁(えに)」です。それは鑑賞者と作品の出会いでもあり、また作家と空間、そして作家同士の出会いでもあるのでしょう。

出展作家紹介

鷹野理芳
Riho Takano

鷹野理芳 《光源氏誕生「桐壺の巻」より》(部分) 2022年  作家蔵

6歳で飯島春敬主宰の春敬書道院に入門。その後、飯島敬芳に師事し、かな書道を学びます。
源氏物語に時を超えても変わらない人の心を見出し、物語の和歌を書き続けているほか、色彩豊かな料紙とともに物語に登場する姫君のイメージを組み合わせるなど、装飾的な作品にも取り組んでいます。

 

高木厚人
Atsuhito Takagi

高木厚人 《光源氏と藤壺中宮との贈答歌》 (部分) 2022年 作家蔵

千葉県生まれ。京都大学在学中から杉岡華邨に師事し、源氏物語に描かれた美意識こそがかな書道の基本であることを学びます。
現代語訳本や大和和紀の漫画「あさきゆめみし」を通して源氏物語に魅せられ、光源氏とさまざまな女性の間で交わされる贈答歌を手がけています。

 

玉田恭子
Kyoko Tamada

玉田恭子《ふみのくら 八雲  ” Yugiri ” 》 2021年 作家蔵

武蔵野美術大学工芸工業デザイン科卒業。Pilchuk Glass School(米国)他、各地のガラスの教育機関や工房を訪ねて研修、ガラスアートを学びます。
宙吹きによって制作された色ガラスや墨流し模様などを電気炉で板状にし、それを何層にも重ねて形作る独自の技法を使用。ガラス内部に源氏物語の和歌などを封じ込めた幻想的な作風で、平安時代の美的理念をあらわす「もののあわれ」を具現化しています。

 

青木寿恵
Sue Aoki

青木寿恵《源氏物語》 1976年頃 寿恵更紗ミュージアム蔵

1926年(大正15)大阪府枚方市生まれ。ローケツ染めを生業とする傍ら、1965年より手描き更紗の研究をはじめ、東京銀座和光ホールをはじめ全国で個展開催。
自然の生命力から得た感動に基づき自由な感性で作品を制作しており、更紗に代表されるエキゾチックな文様だけでなく、源氏物語を題材にした独創的な王朝の世界も描いています。

 

石踊達哉
Tatsuya Ishiodori

石踊達哉《「橋姫」の帖より 有明月》1997年 講談社蔵

日本画家。金箔やプラチナ箔をベースにした緻密で装飾的な絵肌を特徴としており、日本画の技法を自在に操りながらも、それを超越した美を追求しています。
1996~97年には瀬戸内寂聴が現代語訳した「源氏物語」(講談社)全54帖の装幀画を手がけ、日本画の装飾性を活かした色彩と大胆な画面構成が大きな評判を呼びました。

 

守屋多々志
Tadashi Moriya

左より守屋多々志《空蝉「軒端の萩」》 1991年、《紅葉賀「青海波」》 1991年、ともに個人蔵

日本画家。岐阜県大垣市生まれ。昭和5年同郷の前田青邨に師事し、日本美術院で歴史画や風俗画を数多く制作。
高松塚古墳壁画などの模写にも多く従事したほか、挿絵や舞台美術の仕事を通じて源氏物語に関心を抱き、その思いから1991年に約3年余りの歳月をかけて源氏物語の扇面画を完成させました。

 

渡邊裕公
Hiroaki Watanabe

渡邊裕公《平成回想~繁栄と受難~》 2019年 作家蔵

愛媛県出身。大きさが異なるボールペンを使い分け、ハッチング(線の重ね描き)した後に徐々に点描で密度を深め、色鮮やかな世界を表現。

筆からカラーボールペンという現代の書記具に置き換えつつ、当時の文化や人の営み、原画を描いた絵師の視覚を制作を通して追体験するとともに、歴史の一場面を現代に再現しようと試みています。

同時開催の「源氏物語と江戸文化」にも注目!

コレクション展「源氏物語と江戸文化」会場入口

また、「美をつむぐ源氏物語」と同時開催されるのが、ギャラリーBを会場とした「源氏物語と江戸文化」です。こちらは一室のみの展示で、入場料は無料。江戸文化の中で勃興した源氏物語の人気やその展開について、貴重な資料とともに紹介しています。

柳亭種彦/著、歌川国貞(初代)/画《偐紫田舎源氏》文政12年~天保13年(1829~1842) 通期展示 東京都江戸東京博物館蔵
歌川豊国(三代)・歌川広重(初代)/画、伊勢屋兼吉/版 《風流源氏雪の眺》 嘉永6年(1853)12月  前期展示 東京都江戸東京博物館蔵
《長板中形型紙 源氏車》 大正~昭和時代 20世紀  通期展示 東京都江戸東京博物館蔵

源氏物語は、もともと公家や武家を中心とした限定的な階層の間で読まれていた文学でした。しかし17世紀後半、大量印刷技術の普及により大衆に親しまれるようになり、同時に源氏物語を翻案した「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」が人気を博し源氏物語の内容を絵画化した「源氏絵」によってその情景や人物たちは庶民の間に浸透していきました。
会場に展示された数々の源氏絵では「海老茶筅髷(えびちゃせんまげ)」というユニークな髪形をした光源氏(「偐紫田舎源氏」においては足利光氏の姿や、抒情に満ちた四季の風景を見ることができます。

また、源氏物語の影響は文学や絵画にとどまらず、源氏物語を意匠化したデザインは幅広い層で受け入れられていきます。例えば着物においても、源氏物語の一場面やモチーフを意匠化した「源氏文様」はとりわけ江戸時代の人々に好まれ、身近なファッションとしても楽しまれるようになりました。本展では重要無形文化財保持者の清水幸太郎氏と先代の吉五郎氏旧蔵の着物の染型に使用する型紙から源氏物語から生まれた文様の数々を紹介しています。

なお、「源氏物語と江戸文化」は前期と後期で一部展示品が異なります。

※「源氏物語と江戸文化」前期展示 2022/11/19-12/18      後期展示 2022/12/20-2023/1/6

 

報道機関向け内覧会の展示解説を担当した東京都美術館学芸員の杉山哲司氏は本展のテーマである「縁(えに)」について、
「源氏物語が単なる文学作品にとどまらないということを感じていただける展覧会。慌ただしい世の中だが、こういう時こそ一旦立ち止まって過去を振り返り、未来に生かしていく。そういう時間をこの会場で提供できればと思う」
と語り、鑑賞者が源氏物語との「えに(縁)」により、日々の生活に新たな視点を見出すことに期待を込めました。

「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」会場風景

両展の会期は2023年1月6日までと比較的短め。ぜひ、作家たちのイマジネーションによって新たな生命を吹き込まれた源氏物語の世界を体験してみてください。

開催概要

会期 2022年11月19日(土)~2023年1月6日(金)
会場 東京都美術館
ギャラリーA・C(上野アーティストプロジェクト2022「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」)
ギャラリーB(「源氏物語と江戸文化」)
開室時間 9:30-17:30、金曜日(1月6日を除く)は20:00まで(入室は閉室の30分前まで)
休室日 2022年11月21日(月)、12月5日(月)、19日(月)、29日(木)~2023年1月3日(火)
観覧料 一般 500円 / 65歳以上 300円
※「源氏物語と江戸文化」は無料
※学生以下は無料
※身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添いの方(1名まで)は無料
※学生の方、65歳以上の方、各種お手帳をお持ちの方は、証明できるものをご提示ください
※特別展「展覧会 岡本太郎」(会期:2022年10月18日(火)~12月28日(水))のチケット提示にて、入場無料
※事前予約なしでご覧いただけます。ただし、混雑時に入場制限を行う場合がございますのでご了承ください
主催 東京都(「源氏物語と江戸文化」のみ)、公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館
問い合わせ先 東京都美術館 交流係 TEL:03-3823-6921(代表)
展覧会HP https://www.tobikan.jp/exhibition/2022_uenoartistproject.html
(上野アーティストプロジェクト2022
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」)
https://www.tobikan.jp/exhibition/2022_collection.html
(コレクション展「源氏物語と江戸文化」)

 

その他のレポートを見る

徳川家の夢と栄華、その名残りを求めて。寛永寺根本中堂と徳川歴代将軍霊廟特別公開!取材レポート

東叡山寛永寺
徳川慶喜が謹慎した「葵の間」

徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正(てんかいだいそうじょう)によって創建された寛永寺(かんえいじ)。
寛永寺の根本中堂、徳川慶喜が謹慎した「葵の間」、そして徳川歴代将軍の御霊廟が2022年10月15日に特別公開された。
今回は特別に撮影許可をいただき、その模様をレポートする。

 

寛永寺 根本中堂外観

上野公園の北側に隣接し、徳川家の墓所を含む霊園を守る寛永寺。
寛永2(1625)年に幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)大僧正によって創建された。
後には第四代将軍・徳川家綱公の霊廟が造営され、将軍の菩提寺も兼ねるようになった名刹である。

今回、特別公開される根本中堂(こんぽんちゅうどう)はもともと現在の上野公園大噴水辺りに建立されたが、上野戦争で焼失。
明治になり、川越の喜多院本地堂を移築されたのが現在の根本中堂だという。

美術館や博物館、音楽ホールなどが連なるエリアから少し離れて寛永寺まで歩くと雰囲気も変わり、凛とした佇まいの寺社が私たちを出迎えてくれる。

「万物は平等」を体現した根本中堂の仏さま

特別に公開された根本中堂内部と参加者たち
当時の地図を示して解説を行う寛永寺執事、石川亮岳さん

根本中堂に案内されると、すでに多くの参加者が集っていた。
この日、解説をしてくださったのは寛永寺の執事である石川亮岳さん。

寛永寺の正式名は「東叡山 寛永寺」。「東叡」は「東の比叡山」という意味で、「寛永」は創建時の元号だ。京都の仁和寺や建仁寺、鎌倉の建長寺など、勅許を得た「元号寺」は数少なく、このことからも寛永寺が江戸屈指の名刹であったことがうかがい知れる。

幕命によって建立された寛永寺だが、開基である天海大僧正には「幕府のためにお経を読むだけの場所にしたくなかった」という思いがあったと石川さんは語る。

そこで天海は清水寺の舞台を模した清水観音堂や、不忍池とそこに浮かぶ小島を琵琶湖と弁才天堂で知られる竹生島(ちくぶしま)に見立て、不忍池弁天堂も造営。さらに境内に奈良・吉野山の桜を筆頭に四季折々の花を移植するなど、庶民の行楽の地としてエンターテインメント性を追求したという。
こうして寛永寺は庶民に「開かれた寺」へと徐々にその姿を変えていったのである。

根本中堂の木造十二神将。薬師如来の十二の大願に応じてそれぞれが、十二の時、月、方角を護るとされる

根本中堂で特に目を瞠るのは、非常に精巧で厳かな雰囲気をたたえた木造の諸仏である。

石川さんのお話によれば、本堂の仏像は比叡山延暦寺に倣い、仏像の目線が参拝者の目線と同じ高さになるように置かれている点が特徴だという。これは「一切衆生悉有仏性(全ての生きとし生くるものは、仏性即ち、仏になる可能性を有している)」という大乗仏教の思想をそのまま体現したものだということで、非常に興味深い。

天海大僧正には「仏の前では人に分け隔てはない」という強い思いがあったのだろう。

慶喜公が謹慎した「葵の間」特別公開!

葵の間内部。当時は寛永寺の子院・大慈院の建物内だった
室内では貴重な慶喜公ゆかりの品々を展示

根本中堂内の渡り廊下を歩き、続いて案内されたのは、今回特別に一般公開された「葵の間」。鳥羽・伏見の戦いで敗れた第十五代将軍・慶喜が謹慎生活を送った部屋だ。

慶喜公は洋画・日本画・書などさまざまな分野に秀でた「才人」だったが、江戸城の無血開城までの2カ月間を過ごした葵の間に再現されたそれらの作品は、生き証人として彼の生前の面影を伝えている。

室内に残された慶喜愛用の品々はもちろん、瀟洒なデザインの双葉葵(ふたばあおい)が描かれた壁紙が目を引くが、これは当初なかったもので、慶喜公を描いた浮世絵に合わせてのちに描き加えられたというのも面白い。

葵の間に飾られた「東叡山全図」。当時の広大な境内に驚かされる

かつて境内は上野公園の土地を中心に30万5000坪に及び、幕府から与えられた寺領は小藩の大名に匹敵する1万5000石を誇ったという寛永寺だが、上野戦争で大きな損害を出した寛永寺は、明治になってその寺域の大部分を喪失。やがてそれは上野公園となる。

また、太平洋戦争でも大きな損害を受けたため、江戸期以来の建物は寛永寺内でも多くはないが、「葵の間」は修理と保存が行われて規模を一回り小さくしながら現在に至っている。

長く続いた江戸時代の凋落をその目にしながら、蟄居していた慶喜の心境はどんなものだったのだろうか。それをうかがい知ることはできないが、室内に明るく差し込む陽の光と、どこか澄んだ空気が印象的だった。

歴代将軍の霊が眠る地

都会とは思えない神秘的な雰囲気に包まれた徳川歴代将軍御霊廟内
常憲院殿(五代綱吉)勅額門

最後に案内されたのは、徳川歴代将軍を祀る「御霊廟(ごれいびょう)」だ。
御霊廟とはご本尊・位牌・木像を安置する本殿とそれを拝む拝殿を相の間でつなぐ「相の間造り」という霊廟建築と、将軍が埋葬されている宝塔(墓所)や水盤舎(すいばんしゃ)の総称のこと。

霊廟の構造は天海大僧正の指導により天台宗の根本聖典である法華経の思想に基づいて造営されたが、大部分の建造物は第二次大戦の空襲で焼失。幸いにも被害を免れた勅額門(ちょくがくもん)・水盤舎は重要文化財に指定され、往時の建築様式を今に伝えている。

五代将軍綱吉の墓所に立つ唐銅の宝塔。青銅製であることが幸いし、損失を免れた
八代将軍吉宗の眠る御宝塔

天海大僧正に深く帰依した三代将軍・家光は寛永寺で葬儀を行った後、日光東照宮の傍らに霊廟を築くように遺言した。四代家綱が寛永寺に葬られると、以後は寛永寺の敷地内に五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の霊廟が、次々と造営された。
元々は徳川将軍家の祈願寺だった寛永寺だが、後に増上寺と並ぶ徳川家菩提寺となったというわけだ。

五代将軍綱吉の唐銅製の宝塔、そして左右両扉に刻まれた鳳凰と麒麟の優雅な彫刻が目を引くが、八代将軍吉宗の宝塔は至って質素な印象で、綱吉とは対照的だ。
幕府の財政を立て直すために「倹約令」を出した吉宗らしく、1720年(享保5年)に御霊屋建立禁止令を発布。以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀するという方針が定められたという。
「暴れん坊将軍ではなく、節約将軍」とは石川さんの弁。

この他、十三代家定の隣には妻である天璋院(てんしょういん)篤姫の霊廟も。徳川家の未来を見つめ続けた一人の女性は、今もここから新しい時代を見守っているのだろうか。

度重なる戦禍、明治新政府による境内全域の没収など、寛永寺のたどった道程は決して平坦ではなかった。
しかし、焼失した徳川家霊廟の森を宗家から譲り受けて霊園にし、一般の檀家を受け入れるなど、時代の変化に合わせながらも開かれた寺であり続けることで、寛永寺はその命脈を保ってきた。
時代は変われど、「万物は平等」「仏の前に分け隔てはない」という天海大僧正の思想は人々の努力により、現代に生き続けているのだろう。

今回ご紹介した御霊廟や葵の間は通常非公開だが、特別公開のスケジュールは寛永寺の公式サイトで案内される(現在は休止中)。
ぜひ、上野を散策しながら往時の人々の想いに触れてみてほしい。

 

東叡山 寛永寺

住所:東京都台東区上野桜木1丁目14-11
拝観時間 : 午前9時〜午後5時
徳川歴代将軍御霊廟・葵の間:通常非公開。特別参拝の案内は、公式ホームページなどで確認
アクセス:JR「上野」駅(公園口)から徒歩15分、「鶯谷」駅から徒歩7分


その他のレポートを見る

【取材レポ】上野公園に点在する寛永寺ゆかりの諸堂を散策!「寛永寺僧侶と歩く上野公園めぐり」

「上野の山」と呼ばれる台地のうえに、1873年(明治6年)に開園した日本最古の公園であり、美術館や博物館、音楽ホールなど多彩な文化施設が集中している上野恩賜公園(以下、上野公園)

日本有数の花見の名所としても知られ、国内外から多くの観光客が訪れる人気スポットですが、実は上野公園ができる以前、江戸時代にはその一帯が「寛永寺」というお寺の境内だったことをご存じでしょうか?

2022年10月14日、清水観音堂や五重塔など、現在でも寛永寺ゆかりの諸堂が点在している上野公園を、寛永寺のお坊さんが直々にガイドしてくださるツアーイベント「寛永寺僧侶と歩く上野公園めぐり」が開催されましたので、当日の様子をレポートします。

幸運な20名が寛永寺の根本中堂に集合!

寛永寺 根本中堂

毎年秋に上野の山で数々の芸術・文化イベントを展開する「上野の山文化ゾーンフェスティバル」の一環として開催されてきた「寛永寺僧侶と歩く上野公園めぐり」。参加費は無料で、毎年、当選倍率が10倍を超えることもある人気イベントです。

当日はあいにくの曇天でしたが、最高気温20度ほどの過ごしやすい気候でなかなかの散策日和となりました。

寛永寺 根本中堂

集合場所は、上野公園の北側に隣接している寛永寺の本堂である根本中堂。ガイドしてくださったのは、寛永寺の教化部(仏様の教えを人々に伝える広報部のような部署とのこと)の執事である石川亮岳さんです。

石川亮岳さん

創建時の元号「寛永」からその名がつけられた寛永寺。1625年(寛永2年)、徳川家康・秀忠・家光の3代が帰依した天台宗の僧であり、城下町である江戸の街の建設にも深く関わったとされる天海大僧正によって、江戸城の鬼門(北東)にあたる上野の山に建立されました。

もともとは徳川幕府の安泰と万民の平安を祈る祈祷寺でしたが、4代将軍家綱の頃から将軍家の菩提寺も兼ねるようになり、現在も6人の将軍が眠る霊廟があります。

この上野の寛永寺は山号を「東叡山」といい、つまり「東の比叡山」を意味しています。当時の寛永寺の伽藍やその配置などは、朝廷の安穏を祈る役目をもった天台宗の総本山・比叡山延暦寺やその周辺の神社仏閣に見立てているそうですよ。
(清水観音堂は京都の清水寺、不忍池辯天堂は琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺の弁才天堂に見立てている、など)

寛永寺の全景

江戸期には今の上野公園の約2倍の寺域を誇り、大名の寄進により建立された36坊もの子院を数えた寛永寺ですが、明治新政府軍と彰義隊が戦った幕末の上野戦争(戊辰戦争)で建物が次々に焼失。さらに、彰義隊をかくまったと見なされ、境内をすべて没収されるという憂き目に遭います。

のちに、戦争の被害を受けずに済んだ約1割の土地だけが返却されたことで、寛永寺の境内は現在のように飛び地になってしまったのだとか。没収された土地は、明治初期に公園として整備されました。

う~ん、かなり壮絶な経歴をお持ちのお寺だったのですね……。普段から上野公園の文化施設を楽しませてもらっている身としては強く言えませんが、さすがに10分の1はひどすぎます!

そんなお話を聞いたあと、根本中堂から上野公園のほうへ参加者の皆さんと歩いていきます。

天海大僧正は上野の山を桜の名所にした立役者

てっきり、寛永寺ゆかりの場所に着いたらその解説、という形で進行していくのかと思っていましたが、石川さんは移動中にも寛永寺や上野公園にまつわるさまざまな興味深いエピソードを披露してくださいました。

移動中の様子

たとえば、なぜ上野が「文化の森」と呼ばれるくらい文化施設や教育機関が多いのか。

明治新政府は、建物が焼失し、一から街づくりをするのに大変都合のいい場所だった没収地に、当初は大学東校(東大医学部の前身)を建設する予定だったそうです。しかし、視察に訪れたオランダの軍医・ボードワン博士が上野の自然が失われることを恐れて「公園にすべきだ」と提言しました。

その結果、1873年に日本初の公園が完成。明治新政府が主導した文明開化をアピールする場として活用され、博物館や美術館など文化的な施設が次々に誕生し、数々の博覧会の舞台にもなったのだとか。

ボードワン博士は「公園生みの親」として称えられ、上野公園内で銅像になっています。

また、上野公園の名物である桜のお話も出てきました。
上野の山に桜はいつ来たのか。それは約400年前、寛永寺が建てられた時期と一緒なのだと語る石川さん。

祈祷寺として開かれた寛永寺ですが、天海大僧正は徳川家にかかわりのある人々だけでなく、庶民が広くお参りできる寺を目指していたそうで、観光地としての魅力づくりにも着手していました。その最たるものが桜で、天海大僧正は吉野の山からたくさんのヤマザクラを持ってきて、寛永寺の境内に植樹。それが今日の上野公園の桜並木につながっているといわれています。

昔はお花見といえば梅を見ることを指しましたが、豊臣秀吉が京都の醍醐寺で開催した「醍醐の花見」などをきっかけに、徐々にお花見で桜を見る文化が広がっていったそう。次第に上野の山は、江戸随一の桜の名所として多くの観光客が訪れる場所になりました。

当時は今とは違い、夜桜見物ができないように制限されていたとか。「夜桜を楽しめるのは坊さんだけ」と皮肉を言われた、などという逸話も残っているのだと笑顔を浮かべる石川さん。

2時間というそこそこ長丁場の散策ですが、次々に新しい豆知識を披露してくださる石川さんのユーモアを交えた語り口に、時間を忘れて聞き入ってしまいました。

江戸時代の根本中堂は東京国立博物館ぐらい大きかった!?

噴水広場

上野公園でまず足を運んだのは憩いの空間、噴水広場です。寛永寺にゆかりのありそうな建物は見当たりませんが……?

実は、もともと根本中堂はこの噴水広場のあたりに建っていたそうです。先ほどまでいた根本中堂は、明治維新後に移築再建されたものなのだとか。

奥のほうに東京国立博物館の大きな本館が見えますが、なんとかつての根本中堂は、あの本館くらいの大きさがあったそう。放火された際は三日三晩燃え続けたとの証言があるほどで、「おそらく日本最大の木造建築だったのでは」と石川さんは話します。

次に足を向けたのは、コーヒーショップのすぐ裏手に設置されていたレリーフです。

右に見えるのがレリーフ。目の前をこれまで何十回と通っていたのに気づきませんでした……。

このレリーフの元となっているのは歌川広重の《東都名所上野東叡山全図》で、かつての寛永寺の境内の様子が描かれています。左に見える大きい建物が根本中堂。在りし日の境内の広大さを感じられますね。

今は失われてしまいましたが、弁慶が持ち上げたとの逸話が残る延暦寺の担い堂を再現した建物なども見受けられます。

なお、よく見ると根本中堂の両脇には「ブロッコリーのような形をした竹」(by石川さん)が描かれています。これは最澄の弟子の慈覚大師円仁という人物が、仏教の勉強のため留学していた中国の五台山からもらってきた竹を延暦寺に埋め、その竹を株分けしてもらったものを当時の寛永寺に植えたものとのこと。

今でも根本中堂の手前に植えてあるので、参拝の際は探してみるのも面白そうですね。

動物園の中にひっそりとたたずむ藤堂家の墓所

なぜか上野動物園へ……?

続けて向かったのは、なんと上野動物園。パンダを見るために並んでいるお客さんたちの視線を浴びながら中ほどに進んでいきます。

目的地は通常、人が立ち入りできない塀に囲まれた、初代藤堂高虎をはじめとする藤堂家が眠る墓所でした。こんなところにお墓が……!?
(中の撮影はNGでした)

何の変哲もないベンチの向こう側に墓所があります。

「一般の方をご案内するのは年に一度、この時だけ!」とレア度を強調した石川さん。参加者の皆さんは、このイベントに申し込むだけあり、上野の歴史に多かれ少なかれ詳しい方が多かったようですが、さすがにこの場所に関しては「知らなかった~こんなところあるの!」とテンションが上がった様子です。

3メートル近くありそうな14の石塔が立ち並ぶ、ある意味異様な光景が広がっていましたが、木々のさざめきと鳥たちの声だけが響く、とても心静まる空間でもありました。

築城の名手として知られる大名・藤堂高虎は、家康の側近の中でも特に重用されていた人物です。藤堂家の下屋敷があった土地を、家康を祀る上野の東照宮(当時は寛永寺の伽藍の一つの東照社でした)の造営のために献上。屋敷跡には自らも東照宮の別当寺として寒松院を建立しました。

かつて寒松院があった場所が、現在は上野動物園に代わってしまいましたが、墓所だけはそのままになっているというわけでした。

石川さんは好きな高虎のエピソードとして、家康が亡くなる直前の場面を挙げました。
家康は天台宗を信仰していましだが、信頼する高虎が天台宗ではないことを心配した家康は「死んだ後も会いたいが、宗派が違うと難しいのか」と枕元でこぼしたとか。それを聞いた高虎はいたく感激して、その場にいた天海大僧正にお願いして天台宗に宗派替えをしたそうです。

藤堂高虎という武将には主君を変え続けた変節漢のイメージがありましたが、徳川家に対しては献身的という言葉がぴったりの忠義者だったんですね。

キャプション:上野動物園の中には、お釈迦様の遺骨を安置するための五重塔も。寛永寺が直接管理できないため、東京都に譲って守ってもらっているとのことでした。

受験生たちに大人気!上野大仏の残念なエピソード

上野動物園を出発し、さくら通りに向かって歩いていくと、上野精養軒の近くの丘に上野大仏パゴダが見えてきます。

上野大仏

「お顔だけが祀られたこれは何?」と、前知識がないと誰もが疑問に思うでしょうが、こちらはれっきとした大仏様です。

上野大仏は、1631年(寛永8年)に越後村上藩主だった堀直寄が戦乱に倒れた人々のために漆喰で釈迦如来坐像を建立したのが始まり。1655~1660年頃に高さ8メートルの銅仏に改められ、罹災と復興を繰り返しましたが、ついに関東大震災でお顔が落ちてしまったそう。直そうとしたものの第二次世界大戦に軍の供出令で胴体は徴用されてしまったという、踏んだり蹴ったりな来歴をお持ちです。

戦後、寛永寺が保管していたお顔だけでも、ということで大仏殿の跡地にお祀りして今日に至るのだとか。

現在では、「もう体がないから落ちないよね」ということで、落ちない合格大仏として多くの受験生が合格祈願に訪れる場所になりました。大仏様のお顔を撫でられるという全国的に見ても珍しいスポットです。

上野大仏にはパゴダ(仏塔)が併設されていて、中には東照宮の薬師堂のご本尊だった薬師如来像が祀られています。
「時の鐘」

上野大仏のある丘から降りる際、遠目に「時の鐘」(時鐘堂)が見えました。松尾芭蕉の「花の雲 鐘は上野か 浅草か」という句で有名ですよね。
江戸時代の時報として活躍したこの鐘は、石川さんによれば今でも1日3回、朝夕6時と正午に鐘が鳴らされているそうですよ。

※現在の「時の鐘」は1787年(天明7年)に改鋳されたもの。

「月の松」は江戸時代の風流を感じられるフォトスポット

大仏様に一礼したのち、一行はさらにさくら通りを歩いて清水観音堂の舞台の上へ。

清水観音堂の舞台

舞台から不忍池方向を見ると、歌川広重が「名所江戸百景」で描いたことで知られる、松の枝を円になるように成長させた「月の松」があります。明治時代に台風で折れてしまったものを、2012年に150年ぶりに復活させたものです。

「月の松」

意外にも、石川さんによれば「月の松」は寛永寺の創建当時はなかったものらしいです。具体的な制作年は判明していないようですが、「平和な時代が続き、1800年頃になって人々の生活に余裕や遊び心が出てきて、その一つがこの『月の松』に現れているのでは」とのことでした。

円の中に不忍池や弁天堂を臨む風流な景観。ここが一番の映えスポットだと話す石川さんに勧められて、参加者みんなで写真タイムに入りました。せっかくの機会に曇り空で残念でしたが、また今後、晴れている日にリベンジしてみます!

清水観音堂

このあと、朱と黒と金のコントラストが美しい清水観音堂の中で10分ほど小休憩を挟みました。

ちなみに、京都の清水寺を模した舞台造りのお堂である清水観音堂は、1631年(寛永8年)に天海大僧正により摺鉢山(現在も上野公園内にある丘陵部)に建立され、1694年(元禄7年)に今の場所に移築されました。寛永寺のお堂の中でも数少ない、戦争の被害をほとんど受けなかったお堂とのこと。
移築の際、新築するのではなく木材をバラして作業したため、建立から300年以上たった今も使用されている木材は当時のままなのだとか。

御本尊は、清水寺より遷座された千手観音像。左右には、こちらも清水寺にならって脇侍である勝軍地蔵(地蔵菩薩)と毘沙門天の仏像が配置されていますが、実は千手観音像の両脇を固めるのは大弁功徳天と婆藪仙(ばすうせん)であるのがセオリーで、鎧兜を身につけた勝軍地蔵がいるのはかなり珍しいそうです。

勝軍地蔵の実物が見られる場所自体が貴重とのことなので、「ぜひ歴史マニアのお友達に教えてあげてください」と石川さん。

寛永寺で起きた悲劇・戦争の悲惨さを伝える彰義隊の墓

散策の最後に訪れたのは彰義隊の墓でした。

彰義隊の墓

1868年(慶応4年)、江戸城の無血開城により、寛永寺で謹慎していた15代将軍慶喜は出身地である水戸に向けて出発しますが、慶喜を警護する目的で側近や浪人たち有志が結成した彰義隊は上野を動かないまま。やがて新政府軍に目をつけられます。

その結果、彰義隊の拠点だった寛永寺を巻き込んで、上野戦争が勃発。犠牲になった彰義隊の人々は、戦いに負けただけではなく国賊であると不名誉な扱いをされ、お葬式をすることもできず遺体が野ざらしにされたそうです。

彰義隊の墓

その後、身分を隠したお坊さんが266人分の遺体を火葬にかけ、荒川区の円通寺に埋葬しましたが、公式に慰霊をすることは長い間できないまま。ようやく1881年(明治14年)頃に慰霊碑が激戦地に立てられました。それがこの彰義隊の墓です。

ちなみに、彰義隊の墓の手前側には、新政府軍の中心人物だった西郷隆盛の銅像が置かれていますが、お墓にお尻を向けて立っています。「意図したもの?」とちょっと考えてしまいますね。

西郷隆盛像。左手奥に彰義隊の墓があります。

「そういう時代だったからしょうがないとはいえ、現代人としてあんまりだと思う」とこの悲劇をまとめた石川さん。戊辰戦争中、江戸で唯一の戦場になった上野、寛永寺のお坊さんの言葉としてとても重く突き刺さります。

今日私たちが上野公園の文化施設で享受している教養や芸術は、戦争の理不尽さのうえに成り立っていることに思いを馳せる必要があるようです。本イベントに同行してみて、上野公園の見方が少し変わった気がしました。

石川さん、ありがとうございました!

「寛永寺僧侶と歩く上野公園めぐり」の取材レポートでした。

2時間のイベントとは思えないボリュームで、石川さんからはここでご紹介した何倍もの面白いお話を聞くことができました!

参加された皆さんは疲れた表情もなく、どなたからも大満足のオーラが出ていました。同行者のいる方は口々に感想を言い合っていたのが印象的です。

来年以降も「上野の山文化ゾーンフェスティバル」の一環として開催予定ですので、ご興味のある方はぜひ申し込んでみてください。

 

※山内各施設の開閉門及び開閉堂時間が異なりますので、訪問の際は寛永寺のHPをご確認ください。


その他のレポートを見る

史上最大のTARO展がやってくる!【東京都美術館】「展覧会 岡本太郎」(~12/28)内覧会レポート

東京都美術館

戦後日本において最も高い人気と知名度を誇る芸術家・岡本太郎。

今秋、東京都美術館は「展覧会 岡本太郎」と題し、過去最大規模の回顧展を開催する。

開催前日に行われた報道内覧会の模様をレポートし、その内容の一部を紹介する。

《明日の神話》(1968)より

ぼくはパリで、人間全体として生きることを学んだ。
画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、
もっと広く人間、全存在として生きる。

『壁を破る言葉』イースト・プレス、 2005年

 

ある時、「何か本職なのか?」と問われた岡本太郎はこう答えたという。
「人間—全存在として猛烈に生きる人間だ」と。

絵画、立体、パブリック・アートから生活用品まで、圧倒的なインパクトのある作品を次々に生み出した岡本太郎。
戦後最も知名度の高い日本人芸術家のひとりでありながら、彼は「芸術」そのものに回収されることを強烈に拒否した存在だと言えるだろう。そこに彼の謎があり、面白さがある。

前衛芸術運動を牽引した壮年期の作品、民俗学的な視点で生まれたユニークな芸術、大衆に向けたパブリック・アート、そして「太陽の塔」。本展覧会は過去最大規模のスケールで「人間・岡本太郎」の全貌を紹介する待望の回顧展だ。

今に生きる”TARO”の作品を体感せよ!

展覧会場入口。妖しく灯る《光る彫刻》(1967)(川崎市岡本太郎美術館)の存在感にいきなり目を奪われる
画面左から《青空》(1954)(川崎市岡本太郎美術館)、《にらめっこ》(1978)(川崎市岡本太郎美術館)
展示会場地下一階は特に順路もなく、心の赴くまま岡本太郎の作品と向き合える
立体作品も豊富に展示。画面手前は頬杖をついて笑う子どもをモチーフとした《若い夢》(1974)(川崎市岡本太郎美術館)

岡本作品のほぼすべてを所蔵する川崎市岡本太郎美術館と岡本太郎記念館が主催者として参画し、大阪、名古屋、東京を巡回する本展覧会。
大阪・名古屋においてははじめての回顧展実現となるが、東京展を担当した東京都美術館学芸員・藪前知子氏は
「太郎さんは『現在』に自分の作品をどうぶつけるか、どう対峙するかを考えていた人。基本的に『回顧展』はそぐわない」
とし、特に展覧会場入口の空間は「生で岡本太郎とぶつかることのできる場所」として工夫を凝らしたという。

具体的には初期から晩年までの代表作を、時系列や、どの時代にどういう文脈で制作された作品なのかということを考慮せずに配置し、さらに順路も設けないことで、鑑賞者が自由に岡本太郎の作品に「出会う」ことができる場になっている。

岡本太郎、その全存在を賭けた歩み

1章展示風景より
2章展示風景より。《燃える人》(1955)(東京国立近代美術館蔵)

展示会場の一階から二階までは、全6章で岡本太郎の画業を時系列順に追い、その作品を通じて体感できる構成となっている。

1930年、18歳の岡本太郎は東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学後、半年で両親に同行してパリへ。渡欧時代の作品は東京に持ち帰ったのちすべて焼失したが、この1章「岡本太郎誕生」では後年再制作された作品などを展示。画家・岡本太郎が誕生した最初期の作品の全貌を知ることができる。

続く2章「創造の孤独」では帰国後、仁科会を主な活動の場としながらも前衛芸術の共同体を結成し、先鋭的な作品を精力的に生み出していた時期の作品を紹介。彼の代名詞となる「対極主義」というスローガンが生まれたのもこの時代だ。
日本の社会的な事象に反応した作品も多く描かれ、《燃える人》(1955年・東京国立近代美術館蔵)という作品では原爆に対するメッセージ、そして後日の代表作《明日の神話》につながるモチーフも描かれている。

3章展示風景より
ユニークな中にビビッドな生命感あふれるデザインが並ぶ4章。中央の《坐ることを拒否する椅子》は実際に体験することができる

1951年、東京国立博物館で考古学の遺物として陳列されていた異様な形の縄文土器に偶然出くわして、彼はこう叫んだという。
「なんだ、これは!」
岡本太郎がこれを機に縄文土器の造形に日本人の根源的な生命のあらわれを見出し、「わび・さび・渋み」に象徴されるような日本文化の「伝統」に異議を唱え、新たな日本像を見出したというのは有名な話だ。

3章「人間の根源」では60年代に入り、縄文土器に影響を受けたうねるような曲線が装飾的に画面を覆い、カリグラフィーと抽象絵画の可能性を探った頃の作品が展示されている。まるで梵字のようでもあり、強烈な呪術性を感じさせる作品群はまさに岡本の面目躍如といった感が強い。

続く4章「大衆の中の芸術」は趣をがらりと変え、岡本のパブリック・アートの世界へ。岡本はほとんど作品を売らなかったことで知られるが、彼にとって芸術とは映画やテレビなどのマスメディアと同様に大衆に広く共有されるものだという信念があった。展示された作品の中に特撮映画の宇宙人のデザインなど、およそ「芸術家」にそぐわない多様な仕事が含まれているのが面白い。

また、4章フロアには有名な《坐ることを拒否する椅子》の展示もあり、もちろん鑑賞者は自由に座ることができる。試しに座ってみると・・・意外に拒否されているような心地はしなかったが、長時間座ることもできないだろうという印象。「いつまでも座っていないで、闘え」というメッセージなのだろうか。

5章展示風景より。《太陽の塔》と《明日の神話》はほぼ同時期に進められた岡本渾身のプロジェクトであった
圧倒的な引力を放つ《明日の神話》の手前に据えられているのは《生命の樹 前景模型》(2017)(岡本太郎記念館)

5章「ふたつの太陽」で私たちを待つのはあの《太陽の塔》、そして代表作のひとつである《明日の神話》である。
合理的な近代建築の屋根を突き破ってそびえたつ高さ約70メートルの《太陽の塔》は、日本万国博覧会でも圧倒的な存在感を放ち、今日まで続く私たちの中の「岡本太郎」のイメージを築き上げた。会場では1/50サイズの立体模型や貴重な構想スケッチが展示されている。

この《太陽の塔》と同時に進められていたもうひとつの巨大プロジェクトが《明日の神話》で、万博の準備のかたわら何度もメキシコに足を運んで完成させた作品である。作品の中心には放射能の炎に焼かれる人間が描かれ、画面全体の複合的なイメージの中には悲惨さだけではなく、力強く新たな運命を切り開いていくエネルギーも感じさせる。本展ではドローイングと1/3サイズで描かれた精巧な下絵が紹介されている。

6章展示風景より。左から《動物》(1954、その後加筆)(岡本太郎記念館)、《雷人》(1995・未完)(岡本太郎記念館)

「美術品」や「芸術」の、あのよそよそしさ。
そのなま皮をひっぱがして、自由なイマジネーションをふき上げるべきだ。

 

「芸術家」ではなく、原初の、なまなましい生命を燃焼させることに人生を捧げた岡本太郎。
晩年は絵画作品の発表を行うことはほとんどなかったが、死後アトリエに残された膨大なカンヴァスが、彼が死ぬまで絵画の探求を続けていたことを示していた。
最後を飾る6章の展示作品が示しているのは、老いさらばえ、死してゆく命の残滓ではない。最後に展示された《雷人》から、晩年においてもなおも煌めく生命の奔放さが感じられるのは自分だけではないだろう。

本展の会期は12月28日までと、比較的短い。
ぜひ、これを機に岡本太郎が人生を賭けた作品に向かい合い、時には挑んでみてほしい。

©岡本太郎記念現代芸術振興財団

開催概要

会期 2022年10月18日(火)~12月28日(水)
会場 東京都美術館
開室時間 9:30-17:30、金曜日は20:00まで(入室は閉室の30分前まで)
休室日 月曜日、9月20日(火)
※ただし8月22日(月)、8月29日(月)、9月12日(月)、 9月19日(月・祝)、9月26日(月)は開室
観覧料 一般 2,000円   大学専門学生 1,300円  65歳以上 1,400円
※本展は展示室内の混雑を避けるため、日時指定予約制となっております。→展覧会HP
主催 公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、公益財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団、川崎市岡本太郎美術館、NHK、NHKプロモーション
問い合わせ先 050-5541-8600(ハローダイヤル)
展覧会HP https://taro2022.jp/

 

その他のレポートを見る

20世紀美術の神髄が、今ここに。【国立西洋美術館】「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」内覧会レポート(~2023/1/22)

国立西洋美術館

ピカソをはじめとした比類のないコレクションを誇るベルリン国立ベルクグリューン美術館。

ベルクグリューン美術館の改修を機に実現した本展では、日本初公開76点を含む97点ものコレクションが来日を果した。

今回は、開催に先立って行われた報道内覧会の様子をお伝えする。

展示会場入口

ピカソ、クレー、マティス、ジャコメッティ・・・20世紀4人の巨匠を中心とする個性的なコレクションを誇るベルリン国立ベルクグリューン美術館。その基盤を築いたのは近代美術の収集家ハインツ・ベルクグリューンで、一流の目利きであったベルクグリューンの選び抜いた作品群は、その質の高さゆえに珠玉のコレクションとして世界的に知られている。

本展覧会は、同館のコレクションから精選された97点の作品に、日本の国立美術館の所蔵・寄託作品11点を加えた計108点で構成。日本初公開の76点を含め、ベルクグリューン美術館の主要作品を館外で一堂に展示する機会としてはこれが初となる。

日本初公開作品は76点!

1章展示風景より、左はポール・セザンヌ《セザンヌ夫人の肖像》(1885-86頃)
2章展示風景より。左からパブロ・ピカソ《ジャウメ・サバルテスの肖像》(1904)と《座るアルルカン》(1905)

本展の主軸となるのは、ピカソの「青の時代」から晩年までの各時代を代表する作品群だ。ベルクグリューン美術館が誇るピカソの名作の数々により彼の画業の足跡をたどることができ、さらに、バウハウスを中心とするクレーの絵画34点、マティスの晩年の境地を示す切り絵、ジャコメッティの円熟期の人間像などが加わり、創造性にあふれた20世紀の美術のエッセンスを堪能できる。

序章に続く1章「セザンヌ──近代芸術家たちの師」では、セザンヌの《セザンヌ夫人の肖像》などの肖像画や、ベルクグリューンがオークションで取得して以来愛蔵した《庭師ヴァリエの肖像》などを紹介。

2章「ピカソとブラック──新しい造形言語の創造」では、ピカソの「青の時代」の後期に描かれた《ジャウメ・サバルテスの肖像》をはじめ、1910年代後半〜20年代前半の静物画などを展観。さらにジョルジュ・ブラックの絵画3点をともに紹介することで、2人の緊密な共同作業によってすすめられたキュビスムの展開をたどっている。

3章展示風景より
4章展示風景より

本展出品作のうち、日本初公開35点を含む約半数がピカソの作品。この充実したボリュームによって、ピカソの画業の各時代を代表する名品をじっくり堪能できるのが本展最大の特徴だ。

3章「両大戦間のピカソ―古典主義とその破壊」、4章「両大戦間のピカソ―女性のイメージ」では本展のハイライト作品とも言える《大きな横たわる裸婦》などさまざまなピカソ作品を贅沢に展示。

特にピカソ作品の女性の扱いについては抗議運動が巻き起こるなど紛糾することもあるが、果たしてピカソは彼女たちを男性的な目線で一方的に描いているのだろうか?
これは個人的な感想だが、直に作品と対峙してみると、そこには温かさや優しさといった眼差しも確かに感じ取れる。ぜひ、4章に展示された女性像に込められたピカソの感情の機微をじっくり味わってほしいと思う。

5章展示風景より。左からパウル・クレー《夜明けの詩》(1938)、パウル・クレー《子どもの遊び》(1939)
6章展示風景より

終盤の5章「クレーの宇宙」6章「マティス──安息と活力」ではベルクグリューンのコレクションの中でピカソに次ぐ重要性を与えられるクレーとマティスの作品をそれぞれに展観。

最終章では、第二次世界大戦後の時代に20世紀の二大巨匠としての評価を確立したピカソとマティス、そしてこの時代に円熟期を迎えたジャコメッティの作品によって構成される。ベルクグリューンが直接交流を持ったというこの三人の偉大な芸術家の作品がひとつの空間で響き合うさまは、まさに圧巻だ。

「ヨーロッパの近代芸術は大きく日本からの影響を受けています。それがなければ、ヨーロッパの近代アートが発展することはなかったでしょう。今回の展覧会は日本とヨーロッパの交流をさらに前進させるものでもあり、日本で最初に展示することは非常に大きな意味があると思います」

同館のコレクションを日本で紹介することを強く希望していたというヨアヒム・イェーガー博士(ベルリン国立新ナショナルギャラリー副館長)はそのように語り、本展の開催意義を強調した。

今私たちはウクライナ戦争に象徴されるような騒乱の時代を生きているが、大きな戦争を経験しながら創作を続けた芸術家たちの作品は、私たちに大きな示唆と、この時代を生き抜く生命力を与えてくれるのかもしれない。

開催概要

会期 2022年10月8日(土)~2023年1月22日(日)
会場 国立西洋美術館
開館時間 9:30〜17:30
毎週金・土曜日:9:30〜20:00
※入館は閉館の30分前まで
休館日 月曜日、10月11日(火)、12月30日(金)
-2023年1月1日(日)、1月10日(火)
(ただし、10月10日(月・祝)、2023年1月2日(月・休)、1月9日(月・祝)は開館)
観覧料 一般2,100円、大学生1,500円、高校生1,100円
混雑緩和のため、本展覧会は日時指定を導入しています。
チケットの詳細・購入方法は、 展覧会公式サイトのチケット情報をご確認ください。
※中学生以下は無料。
※心身に障害のある方および付添者1名は無料(入館の際に障害者手帳をご提示ください)。
展覧会公式サイト https://picasso-and-his-time.jp

記事提供:ココシル上野


その他のレポートを見る