「江戸たいとうロゴマーク」のデザイン
ロゴマークをクリックしてみよう!
「江戸」の文字を、台東区を代表する江戸文化の意匠と組み合わせて作られています。事業を推進する区の熱い想いを込め、区職員自らがデザインしました。
江・戸を組み合わせたロゴマークで、「江」は不忍池(弁天堂と水面)を、「戸」は月の松(歌川広重作の浮世絵)、右上の松葉模様には隅田川花火大会のイメージを重ねています。
江戸っ子の粋- 月の松 と 不忍池 -
上野の清水観音堂にある「月の松」は円形の枝ぶりを満月に見立て、そこから不忍池の様子を眺め風情を楽しむことが粋とされており、その様子は浮世絵にも描かれました。明治初期の台風の被害を受け月の松は消失してしまいましたが、2012(平成24)年に復元されました。
※一部、該当する史跡名所等を詳しく特集している「台東区文化探訪アーカイブス」へのリンクを設定しています。よろしければご覧ください。
台東区の都市基盤は江戸時代にあり!
現在の台東区を形作る都市基盤の多くは、江戸時代にルーツがあります。
上野の山と寛永寺の創建
1625(寛永2)年、天海僧正は2代将軍秀忠(と後の3代将軍家光)と協力し、京都御所と琵琶湖、鬼門を守る比叡山の位置関係を江戸城と不忍池上野の山に見立て、東の比叡山として東叡山寛永寺を創建します。寛永寺の下には門前町が形成され、隣接する谷中地域にも多くの寺院が建立されました。
天海は見立ての際、建築物や環境整備だけでなく吉野山(奈良)の山桜や琵琶湖の蓮等の植物を取り寄せて植栽まで行いました。結果、気軽に京都・滋賀ゆかりの寺院、名所を回ることができる場所となった上野の山は、多くの参拝客でにぎわうようになります。現在まで続く花見の名所・上野の山は、こうして誕生したのです。
名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池
江戸の大火と都市改造
江戸時代は非常に多くの火事が発生しました。特に1657(明暦3)年の明暦の大火では江戸市街の6割が焼失するほどの被害が出ました。
台東区域内でも、火除地として上野や浅草の広小路の整備や隅田川の両国橋架橋など、様々な都市改造が進められました。
名所江戸百景上野広小路
古刹・浅草寺と盛り場の形成
東京最古(628年創建)の寺である金竜山浅草寺は古くから多くの参拝客でにぎわっていました。
江戸時代には幕府の政策により、猿若三座の名で知られる芝居小屋や遊里が日本橋から移転される等、江戸庶民の娯楽を集めた盛り場が形成され、文化の発信地としてさらに発展していきました。
江戸名所百景 猿わか町よるの景
隅田川による水運① 蔵前の米蔵
1620(元和6)年、平川・小石川・旧石神井川を東に直角に曲げて隅田川につなげるため本郷台(神田山)を掘削するという大事業が行われ江戸のまちが整備されます。
隅田川による水運の利便性が向上したことで蔵前の地には江戸幕府によって米蔵(蔵屋敷)が作られました。天領(幕府の直轄地)から送られた米を収納し、幕臣の俸給である禄米の支給を一手に行っていた蔵前周辺は、幕府(江戸)の経済を支える中心地となりました。
隅田川による水運② 職人の集まる場所
江戸の町は江戸城を中心に放射状に、武士・大名の住む「山の手」、町人の住む「下町」とわかれており、台東区域は下町にあたり町人の集まる町でした。浅草周辺は隅田川による水運が発達していたため、工芸品等に使う材料の運搬が容易で職人にとって都合の良い土地だったのです。
芝居小屋や吉原で働く人々や周辺に住む町人からの需要の高さと地理的な要因が結びつき、台東区は日本有数の伝統工芸産業の集積地となっていきました。
名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋
台東区に残る江戸の面影を探してみよう!
台東区内に残る江戸時代の面影の一部をご紹介します。
ここで掲載しているもの以外にも江戸時代の面影を残すものや行事はまだまだたくさんあります。台東区を巡って、今も息づく江戸のこころや文化を是非探してみましょう!
その1 上野の建築物編
○ 旧寛永寺五重塔(重要文化財)
1631(寛永8)年に東照宮境内の薬師堂の対として建立されました。1639(寛永16)年に花見客の火の不始末によって焼失しますが、同年中に再建されました。
○ 上野東照宮(重要文化財)
1627(寛永4)年に藤堂高虎によって建立された東照社を、1651(慶安4)年に徳川家光が官営の東照宮に造り替えた権現造の建物。数度修理を行っているが、ほぼ当時の姿をとどめており、献備の燈籠の一部は創建当時のものが残っています。
○ 不忍池 弁天堂
滋賀県琵琶湖の竹生島・宝厳寺の弁財天を勧請して、寛永年間に弁天堂を建立しました。島の見立てのため陸続きにはせず、建立当初は船を使用して参詣をしていました。多くは1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいますが、本堂前の水舎(手水鉢)は江戸期の建物で、その天井には江戸後期の絵師・谷文晁による「水墨の竜」が描かれています。
○ 清水観音堂(重要文化財)
京都の清水寺を模して1631(寛永8)年に天海が自費で摺鉢山に創建。1694(元禄7)年に現在の場所へ移築されました。
その2 浅草の行事編
○ 浅草流鏑馬(あさくさやぶさめ) * 隅田公園・4月中旬
江戸時代に三社権現社(浅草神社)の正月行事であった流鏑馬を1983(昭和58)年に観光行事として復活・継承したものです。狩装束を身にまとい馬上から3つの的を矢で射る「流鏑馬」と鹿の形をした的に烏帽子・直垂姿の射手が弓を引く「草鹿(くさじし)」が行われます。
○ 三社祭 * 浅草神社・5月第3金、土、日曜日
3日間にわたり行われる浅草神社の例大祭。江戸風情の残る浅草が1年でもっとも活気づくと言われ、三日間にわたり約180万人の人出を数える日本を代表する祭礼の一つです。1日目は東京都無形民俗文化財指定「神事びんざさら舞」の奉納、2日目は100基近い町内神輿が浅草神社に参集し、最終日は3基の大神輿の「宮出し」「宮入り」が行われます。
○ 隅田川花火大会 * 隅田川・7月最終土曜日
歴史的記録に残る最古の花火大会。1732(享保17)年に起きた大飢饉及び疫病の犠牲者への慰霊と悪病退散のため、翌年に8代将軍吉宗が隅田川で行った水神祭で両国橋周辺の料理屋が公許を受けて花火をあげたことが由来です。もともとは「両国の川開き」と言い1962(昭和37)年以降一度途絶えていましたが、1978(昭和53)年に「隅田川花火大会」と名称を変更して復活しました。
○ 酉の市 * 鷲神社・11月酉の日
鷲(おおとり)神社の例大祭。農民が収穫祭に鶏を奉納したのが始まりと言われ、農具を売る市が立つようになりました。江戸時代から多くの浮世絵や句に祭りの様子が残されています。売られている熊手は「かっこめ」と言われ、福や運を掻き込む縁起物です。出世や商売繁盛を願う人々の人気を呼んだこの市は、現在でも季節の風物詩として当日の午前0時を待って参拝者が押し寄せます。
江戸自慢三十六景 酉の丁銘物くまで