講演会シリーズ「江戸から学ぶ」、5/27にキックオフイベントを開催

東京国立博物館
平成館 大講堂

2018年は江戸から明治へと時代が変わって150年の節目の年。台東区では今年度、講演会シリーズ「江戸から学ぶ」と題し、全7回の連続講座を実施する予定です。そのキックオフイベントが、5月27日(日)に東京国立博物館 平成館にて開催されました。当日の様子をご紹介いたします。

本イベントは二部構成。第一部は、德川御宗家十八代当主である德川恒孝(とくがわ つねなり)さんが基調講演を実施。第二部ではトークセッションとして、德川恒孝さん、竹内誠(たけうち まこと・東京都江戸東京博物館名誉館長)さん、浦井正明(うらい しょうみょう・東叡山寛永寺長臈)さん、服部征夫(はっとり ゆくお)台東区長が登壇されました。

基調講演「私の見た江戸時代」

基調講演に登壇された德川恒孝さんは、2003年に財団法人德川記念財団を設立。理事長に就任され、江戸時代の研究とその結果の発表を精力的に行っています。本講演では、江戸時代の特徴や日本人の気質などについて、お話をされました。

德川恒孝さん

德川さんが本講演で特に強調されたのは、江戸時代における「学問」。戦国時代が終わり江戸時代になると、「武」から「文」の時代へと移り、いろはやそろばんといった学問をお寺で教える文教政策が実施されました。こうした政策により、日本人の識字率は同時代のヨーロッパと比べ、非常に高いものとなりました。

18世紀に入ると、資源と人口のバランスが限界を迎え、徹底した質素倹約が始まります。金の掛からない娯楽が求められるようになり、花見や寺社の祭禮、寄席のほか、読書もまた娯楽の一つとして流行しました。その結果、俳句や浮世絵、川柳などの書籍が数多く出版され、日本の書籍出版数は世界最高となりました。書籍を通して様々な文化が広がっていったのも、町人の識字率の高さに由来するものでした。德川さんはこうした江戸時代の文教政策について、「江戸の平和がもたらした最も良いことの一つ」と話していました。

トークセッション「今も生き続ける江戸・台東区」

第二部では、浦井正明さんが進行役を務め、德川恒孝さん、竹内誠さん、服部征夫 区長が、江戸や台東区にまつわるトークセッションを展開。江戸に造詣の深い皆さんのお話に、客席からは驚きの声や、時折笑い声が聞こえていました。

浦井さん:
「江戸から学ぶ」という講演会シリーズは、服部区長が企画されました。なぜこのような企画を立ち上げられたのでしょうか。

服部区長:
江戸時代は町人文化の最盛期でした。防災への取り組みや、教育水準の高さから、地域コミュニティがしっかりと機能していたことが分かります。こうした伝統や文化は台東区のアイデンティティになっていると考えておりまして、江戸に学ぶことで未来を拓く活力が生み出せると思い、企画しました。

浦井正明さん
服部征夫 台東区長

浦井さん:
德川さんにお伺いします。德川家康公は何を理念として江戸を開府したのでしょうか。

德川さん:
家康公は江戸を日本の中心にしたかったのだと思います。地図を見れば分かりやすいのですが、江戸は日本全体の中心に位置しています。もともと江戸は大都会ではありませんでしたが、ポジションとしてはベストだったと思います。

浦井さん:
先ほどの御宗家の講演でも識字率の話がありました。竹内先生、識字率について何かお話しいただけますか。

竹内さん:
江戸時代、村で庄屋さんの選挙をやる場合、入札と呼ばれる記名の投票が行われました。その票が今でも残っているんです。入札を見ると、文字が書けない人のために同一人物が代筆したらしい綺麗な字のものもありますが、それを除くと個性ある字が村全体の70~80%。つまり識字率が70~80%だったということです。小さな村でこの識字率の高さは大変なことで、江戸でも地方でも、人々が身に着けていた教養には大きな格差がなかったんですね。こうした土台があったから、文明開化で西洋文化が入ってきた時にも受け入れることができたし、さらに日本風に咀嚼することができたんです。

竹内誠さん

浦井さん:
女性の教育についてはいかがでしょうか。

竹内さん:
開国後、日本を訪れた大勢の外国人が「驚きは、男性のみではなく女性にも教育がなされていること」と記録を残しています。ですから、日本の女子教育は世界でも有数の水準だったということです。さらに女性と男性の力関係については、武家社会でこそ男性中心でしたが、庶民社会では人生色々(笑)。夫婦のどちらが尻に敷くかは場合によりました。

浦井さん:
服部区長は本講演シリーズを企画された際、江戸時代に創業したお店が台東区に何軒残っているのか、お調べになったと伺いました。そのことをお話しいただけますか。

服部区長:
昨年度の東京商工リサーチの情報ですが、83事業所が現在も事業を営んでいるようです。これだけの数が残っている理由の一つとして、寛永寺や浅草寺の門前町ということで、鰻屋さんや和菓子屋さんが残っている。さらに、360年前の明暦の大火で江戸市中の6割が焼けてしまった際、各地のお寺さんや色々な方々が台東区へ移ってこられた。お寺さんが移ってくれば、職人さんも移ってくる。そのようなことで、職人さんが多くいらっしゃるのではないかと思います。

浦井さん:
江戸後期になると人々は旅行を楽しんでいたようです。その点について、竹内先生いかがでしょうか。

竹内さん:
江戸時代は、一般庶民が机の上で本を読むだけではなく、動くことで文化を築いていく「行動文化」の時代でした。旅もその一つです。江戸時代の旅行は信仰と結び付いていて、お伊勢参りのようにパワースポットを目指しました。さらに、現代でいう旅行代理店も存在したんです。当時の旅は怖いもので、見ず知らずの人と相部屋だったので、非常に危険を伴いました。その点、旅行代理店に入会すると、身分のはっきりした人とだけ同部屋にしてもらうことができました。旅行のシステムが出来上がっていたんです。

それともう一つ、今日僕は台東区のお話をしていないので、それを少しお話しします。今は「西郷どん」ですよね。西郷さんと言えば、上野の銅像です。誰が造ったのかと言えば、高村光雲さん。彼は長屋の生まれだったんですが、12歳になったときに父親から社会へ出ろと言われて、大工の面接を受けることになった。それで面接の前におめかしをしようと床屋へ行ったんですが、そこで床屋が「高村東雲さんが弟子を募集してるから、そっちのほうがいいんじゃないの」と助言をした。そして東雲の面接を受けて、合格したんです。なぜ合格できたのかと言えば、東雲は、脱いだ履物をしっかり揃える彼の姿を見て合格を決めたそうです。長屋生まれであっても他人の家にあがる時は履物を揃えるように家庭で躾けられていて、それが身についていると見えて、弟子にした。この話を読んだ時、僕は東日本大震災の直後に投稿された句を思い出しました。

”大津波 逃れし人の避難所に 百余の靴の 整然と並ぶ”

ごった返し、命からがら逃げてきた先でも靴を並べている。危機的状況の中で、人間の本性(ほんせい)が顕れたのでしょう。まさに高村光雲の持っていた礼儀正しさが、そのままDNAとして日本人の中に今日まで残っているのだと思います。


竹内さんのお話が終わると、客席からは自然と拍手が起こり、キックオフイベントは閉幕となりました。講演会シリーズ「江戸から学ぶ」は、7月から来年1月まで、全7回の講演を実施します。ぜひ足を運んで、江戸や台東区について思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

イベントの詳細や参加申込方法は、台東区のホームページをご覧ください。

【台東区 ホームページ】
https://www.city.taito.lg.jp/index/bunka_kanko/torikumi/edo/edokaramanabu.html
 
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